応報が正当化できるのはどこからどこまでなのか?(本文に具体例を載せました)
応報感情は個人においては危険視されることが多いが、社会制度としては一定の正当性を与えられているように見える。その境界はどこにあるのだろうか。
例)
・SNSで有名人のAさんがBさんに悪口を言ったら、Aさんは退職させられたり、罵詈雑言を叩きつけられたりした。
⇨Aさんは悪いことをしたから、罵詈雑言を受けて当然?
・第三者が極刑を求める感情を抱くこと自体は、どこまで許容されるのだろうか?
⇨応報感情から殺人を犯した加害者に対して、国家が極刑を科すことは、どの理屈で正当化されるのだろうか?

モウダ
●応報感情は個人においては危険視されることが多いが、社会制度としては一定の正当性を与えられているように見える。その境界はどこにあるのだろうか。
応報が正当化できるかは、その応報が決められるプロセスの公平さにあると思います。
まず、社会制度と個人が行う応報行為の決定プロセスをざっくり整理しました。
▽社会制度によって実行される応報行為(刑罰)はどのようなプロセスで決定されるか
1.公平な事実確認によってどのような行為だったかを定める
2.1で定められた行為を法律という基準に照らし合わせて罪を確定する
3.確定した罪から、法律で定められた応報(刑)の範囲(刑罰の種類や期間など)を確定する
4.応報の範囲内で行為を行った人物の背景や心情を考慮して応報を確定する
5.確定して応報をその行為を行った人物に行う
▽個人によって実行される応報行為はどのようなプロセスで決定されるか
1.個人でできる範囲の事実確認によってどのような行為だったかを想定する
2.1.で想定された行為をもとに自身の持つ倫理観や道徳観といった基準に照らし合わせて罪を決める
3.決めた罪から、自身の持つ倫理観や道徳観といった基準をもとにどういった応報が適切かを決める
4.確定して応報をその行為を行った人物にできる範囲で行う
2つのプロセスを比べた際に、社会制度によるプロセスのほうが以下の点で公平さがあると思いました。
・事実確認が公平に行われていること
・社会で共通化され、公平さを確認しながら定められた法律という基準が使用されていること
社会制度による応報行為は、このような公平さの違いから一定の正当性を認められているのではないでしょうか?
しかし、公平さは時代や環境、世界の状況・解釈によって大きく変わるため、絶対的なものではないと考えています。
かつて教育現場における体罰が許されていた時代があるように、公平さというのは常に疑い続けなければいけないものだと思われます。

はかり
悪に対する正当な罰
悪、、抽象的だねぇ
系は『罰』でなく『維持』をしたいのではないかと考えました。
系の秩序の平定、責任者の保身、系内の他者の危機感。
これらが乱されることを嫌い、異端の矯正や圧迫、排除を行うのだと思います。
系は歪みが収まることを切望します。
しかしその治安、暴走することもありますね。
良い大きい系の『応報』対象になりえるかもしれません。
上記より、応報は上位組織の治安を害さない限り応報は正当化されるという解釈に至りました。

イッチ(みぷお)
不思議と全然ピンと来ない
決して批判してる訳じゃない。
ピンと来ない自分の状態を観察中
なんだこれ?w
自分が質問の意図をイメージできないのか?
イメージ広がりすぎて絞れなくてホワホワしてるのか?疲れてるのか?
ハッと思い当たったのは、最近手掛けてる現場が崖の上にあり、ずっと恐怖🫨
とにかく高所作業の極み。しかも風が強く立ってられない。
メンタルゴリゴリ削れてるからかも。
んー面白い。どうしたワイの脳みそ🧠
高ストレス環境下だと、しばらく思考力落ちるのか。
実体験するとなかなかにクレイジー🤪

コーユー
でも、それを実際に行動に移すときは、制度のルールの中で行わなければなりません。法は、感情の暴走を防ぎ、秩序を守るためのものだからです。
応報が制度として正当化されるのは、基本的に被害と対応のバランスが取れている場合だと考えています。文化や時代によって差はありますが、個人的には「目には目を、歯には歯を」という比例原則が目安と感じています。
ですので、SNSでの誹謗中傷や仕返しの罵声は、感情として抱くのは自由ですが、実際の加害は許されません。一方でAさんの退職は、企業との利害の不一致と捉えています。また国家の対応は、報復ではなく秩序維持やルールに基づく判断が重要と考えています。
極刑のような重い応報も、法と社会の合意があれば制度的に正当化されます。社会の民度が高まり、秩序を自然に保てるなら、こうした制度も必要なくなるでしょう。ただし、私は性善説ではなく性弱説の立ち位置なので、制度による管理の必要性を前提としています。
つまり応報の境界はこうです。
感情は自由、行動は制度に従い、比例原則と秩序を守る範囲まで。私はこれが個人の感情と社会制度のバランスの取り方だと思います。

サト
SNS等、意見を持つのは自由
リスクを鑑みて退職に追い込まれるのは企業判断
被害者や遺族が刑を求めるのも権利
でもそれが報復であってはならないと思う
国民から復讐行為を取り上げ
法という一定基準の下、罪に対する罰を受ける
というのが日本の憲法でありそうあるべきだと僕は思う
個人采配による私刑行為は賛成できない

憂い顔の騎士
第一に、私的制裁による応報は絶対認められません。
被害者が受けた苦痛と同等の苦痛を与える(ハムラビ法典等)ことは、近代法治国家では認められません。
人が内心で、極刑を求めたり、私的制裁の方法を考えるのは自由です。考えることに制約はありません。問題は、その考えを実現するために、意思表示をし、行動にうつすことです。
法治国家の元では、司法による判断にまかせるしかないのです

仁
民事補償は別にして、刑事罰は大きく差別化されなければならないし、現行そうなっている。
ただ、正当化と言う以上、過失は当てはまらないと思うので、あくまで故意に行われた行為がどこまで正当化されるのか?という問いなのだろうが、刑法からしてみれば法を故意に犯している以上、正当化云々は成立しない。 成立するのはあくまで個人的感情においてであって、その場合例え殺人であっても、自分にその行為を実行する強い信念と理由が存在するなら、その個人においては正当化できる。

仁

〆さば
北欧の制度で採用されている包摂制度も完全とは言えない。要するに「解らせる」「再犯させない」ことと「見せしめにする(威圧的抑止)」が絡まってるのが現在の応報の多くの部分でそれぞれ実効力があるので半分思考停止で存続している。
そういう意味では構造的に線引きは難しい。
人間はバラバラで均一化は無理だけど無理くり押し込めている。試行錯誤はこれからも続くと思うけど、まだまだ最適化には時間がかかりそう。

よん
応報が正当化できるのはどこからどこまでなのか?
→個人による応報は正当化されない。されるべきではない。
応報が正当化されるのは、法に基づき比例的かつ手続的に担保された制度内に限られる。感情による私的制裁や過剰化は正当化されない。
また、私的制裁の肯定になり得るので、個人間による応報は認められるべきではない。(正当防衛を除く)
例1)Aさんは悪いことをしたから罵詈雑言を受けて当然か?
→当然ではない
法治国家においては憲法31条の適正手続保障および法秩序の原則、自力救済の禁止などから、個人が個人を罰してはならないとされている。
(日本国憲法第31条-法律が定める適正な手続きを経なければ、人の生命や自由を奪い、または刑罰を科すことはできない)
例え相手が犯罪者であっても、個人が法律に基づかずに罰を与えることは認められない。
例2)第三者が極刑を求める感情を抱くことはどこまで許容されるか?
→個人が抱く感情については、いかなる感情であれ、日本国内においてはどこまでも認められる。(日本国憲法19条思想・良心の自由によって保障)
しかし、それを外在化して良いかは全く別である。
応報感情から殺人を犯した加害者に対し、国家が極刑を科すことを正当化する場合があるとするならば、すなわち、あらかじめ定められた法の量刑に基づき、システマティックに分別されることによる。尤も、判決をもって行われるのならば、裁判官はもとより裁判員の心証等によって判決は変わってくるが、刑を課す以上、罪刑法定主義に反するものであってはならない。
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