主体の存在論的身分
主体が差延の運動において遅延されつつ承認の闘争の中で成立し同時に権力の網の目によって布置されているとするならば主体が自らを主体として語るその瞬間は差延の停止なのか承認の効果なのか権力の内面化なのかあるいはそれらの区別自体が後付けの理論的抽象にすぎず実際にはそれらが区別不能な運動として絡み合っているのだとすれば我々が「主体」と呼んでいるものはどの水準で実在していると言えるのか
たろう☸️
人は肉体があるので、己の肉体を自分と認識しがちだが、新陳代謝などによって自分という境界線を決める事はできない
髪の毛を切ったら、切った髪は自分なのかという感じ
さらに、他人を定義する事で、他人以外の自分というのが決まるが、自分というのは、伸縮自在で他人も自分事ととらえる事ができます
子供の怪我を心配するなど
なので、自分というのは雲みたいに実体はあるが境目はなく、常に形が変化していると思ってます

リツキ
質問の意図を私なりに噛み砕いたところ【自分という存在は常に変化し続けている。周囲の環境にも影響されながら予測不能な変化や成長を常に続けているので、「私はこういう人です」と語っている最中にもどんどん変化してしまう。そんな状況下で語る「自分」って何者なの?変化する存在を瞬間的に切り取ったの?それとも変化し続けているからどう存在しないものなの?】ということかなと思いました。その解釈で考えますが…
私たちが変容し続ける存在であることは無視できず、この瞬間に「自分はこういう人間だな」と思っている内容もどんどん過去の話になってしまうと思います。なので、自分という存在を完璧にキャッチすることは厳密には不可能なのかもしれませんね。強いて言うなら、そんな自分が存在するということ、それが「自分」なのかもしれません。この辺の考えはハイデガーの影響を受けてます。

