赤子はナイフを恐れない→死への恐れは本能ではなく知識。どう思う?
すぐに捨てられた赤子は、瀕死の際に「死の恐怖」を感じるのかな…?

きいろ
達観した人は、死を恐れないというし
赤子はそもそも受け入れるしかない境地。
それゆえの器の大きさ、深さ。
なーんて。偉そうに講釈垂れてみた。
#ひとりごとのようなもの
アヤカ
世界を知ることで絶望するのだから。

よん
死ぬのが恐い理由って例えばどんなことがあるのかというと、まず、人(その他の生き物も)や物との別れを伴うからかなと思います。
何かを思い出すことも出来なくなり(これも別れ)、そしてそこから先に何かを感じ、何かを創造することができなくなる。これは恐いです。
人は何かを創造するために生きていると思います。(人間関係・芸術・ただ過ごした一日の記憶。それが美しいものでも醜いものでも)
創造した喜び(生きるよろこび)を知って、また創造したい(まだ生きたい)と感じる。(それが美しいものでも、醜いものでも)
それができなくなることに対する恐怖。
つまり、死への恐れは本能ではなく知識だと思います。
例題にある、すぐに捨てられた赤子が瀕死の場合は、空腹や不快感で苦しむ場合はあっても、恐れは無いのではないかと思います。

かいけつゴスロリ
飢えたら泣くのだから、当然死は恐れているだろうよ

憂い顔の騎士

pophat
大人になって目的を忘れたり目的のすり替えによって恐れが過度になっている
知恵と言うよりは、忘却が恐れを生んでいるとは思います。

白鴉🐦⬛
ソマチッド

角もぐら

コーユー
だからといって「死の恐怖は知識だけ」とは言えないと思っています。
私の考えでは、死の恐怖そのものは本能です。
強い痛み、息ができない、極端な暑さ寒さなど、
「生命の危機」を五感で感じたときに、誰でも恐怖が生まれます。これは赤ちゃんも大人も同じです。
一方で大人がナイフを見て怖くなるのは、
ナイフが引き起こす「痛み」や「損傷」を知識として予測できるからです。つまり知識は、死の恐怖を事前に感じさせる装置だと考えています。
例えば、無色無臭で水のような毒があった場合、
飲むまでは恐怖を感じません。飲んで苦しくなって初めて、死の恐怖が立ち上がります。
まとめると、死の恐怖は本能。
知識はそれを予測できるようにするもの。
この二つを分けて考えると、しっくりくる気がしています。
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