自分が「そうだと信じているもの」が誤りだった場合、それでも価値は残りますか?

紀文屋
結果的に誤りであっても、信じることで得たものは無価値ではないと思います。
私にとってソレは『友情』と言えます

AMY
正誤に価値があるのではなく
自分がどう物事に価値を見出すのか、
という点で自分の世界を構成するのが
私はめっぽう好きですね[照れ]
さんかく

りり
(要するに自己処理の仕方次第?)

てんぺん•✒️
信じていた間は価値があるという事実。
誤りがあった場合、その対象の価値観を訂正した結果
信じる強度が強くなれば新たに高価値な信じる事象となる。
信じる強度が低くなれば低価値な事象となる。
価値が残ると誤りを認めないことになってしまうと考えてしまう。

Yatsuha
「失敗ではない。うまくいかない1万通りの方法を見つけただけだ」
誤りを確認したという価値かなぁ

Pそうた

正宗(ろー)
自分が認識する価値
周囲が認識する価値
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それから、
画家のゴッホで例えると、
ゴッホは素晴らしい絵を描いていた
➜絶対的価値が高い絵を描いていた
しかし、当時の社会では、ゴッホの絵は評価されなかった
➜社会的な価値は、社会的なニーズや価値観の影響を受けるため
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ここから、
絶対的価値が高くとも、周囲からは評価されないことが容易に起こることを導けるかと思います。
同様に、
本来なら絶対的価値が高いのに、自分でもその価値を認識・評価できず、価値を感じられない可能性もありますよね。
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石油の価値が社会に認められる前の石油は『価値』が有るのか、ないのか
➜国家存亡に関わる燃料資源or臭い油
ダイアモンドはデビアス社を筆頭としたダイアモンド業界のマーケティングにより価値が与えられているが、実際にはアメリカ国民全員にマグカップ一杯提供するくらいの埋蔵量がある
➜流通制限やブランディングひよって作られる価値は、価値があるのか、ないのか
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周りの価値基準に囚われずに、自分だけはそこに『価値』を見出すこともできるのではないか
という問に繋がります。
直接的な回答とは異なるかもしれませんが、いかがでしょうか。

フー

Gina
誤りだった→信じることができなくなった以降の該当物に価値はないとしても、信じていた過去の時間が有意義なものなら自分の中での価値は残るかと。
ただ、しんどい思いしながら信じて耐えた期間が全部誤りでした、悪意ある他人の欺罔行為の結果で機会損失経済的損失含めて受け入れ難いマイナス感情だけ残りました。となったらその過去ごと対象物滅殺して無価値扱いでいいんじゃないかなあ…ぐらい、事実を知ったときに残る感情次第で結論が変わりそう。
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