「煩悩」は苦しみを生むか?

信子

風の音
本来、「〜したい」「〜が欲しい」「〜が食べたい」等という煩悩は、生きる目標であったり夢であったり希望であったりするもの。それは苦しみではなく楽しみ、喜びに思います。
煩悩が苦しみを生むケースは「我慢せざるを得ない煩悩」ではないでしょうか。
“叶えたくても叶えられない願望や欲望”、“怒りたくても怒れない我慢”など、抑圧はストレスの根源なので苦しみが生じると思います。
職場に“支配欲の塊”みたいな人がいるんですが、その人は女性にいい顔して溜まったストレスを、野郎に怒りをぶつけることで苦しみを解放しているとしか思えません[笑]

ノゾ
苦楽という分かつことのできない一体の概念のうちの一方へと向かう、生命全般に組み込まれた指向性、その流れのことを煩悩という。
流れが堰き止められることを苦といい、それを乗り越えることを快といい、穏やかに流れることを楽という。
煩悩が激流となれば苦と快が一緒に強まり、緩流となれば同じく快苦は一緒に鎮まり、鎮まりすぎれば虚しくなる。
つまり煩悩は苦しみではなく、苦楽・快苦を生む。

れいかどん

シフ

仁
人の苦しみの原因を煩悩と呼ぶのではないかと思う。従って「煩悩」が苦しみを生むのではなく、「煩悩」により人は苦しむのだと思う。
昔、劇画原作者の小池一夫が作品の中で、「108個の煩悩は、四苦八苦から来ているのだ。四九36 八九72足して108になる」と言うフレーズをよく使っていた。まっこれはこじつけだが当時は妙に納得していたものだ。
問題があるとすると煩悩の定義だが、A Iに108の具体的な内容を尋ねてみたが、沢山あると言う象徴の意味らしいが、食欲もある意味含まれているようだ。ただここで疑問に感じるのは、人が生きるために、あるいは生き続けるために必要な三大欲求 性欲 食欲 睡眠 を果たして煩悩と呼んでいいものだろうか? 確かにより美味しい物、より大きな快楽、必要以上の惰眠、は煩悩とも呼べる。
しかし、そこに苦しみが生まれなければ「煩悩」とは言えないのではないか。
待てよ、あくまで苦しみの原因が「煩悩」であるとするなら、罪悪感を感じない欲求は「煩悩」とは言えなくなる。あくまでそこには「倫理観」が必要になってしまう。すると、「倫理観」は、時代、文化、環境などによって変わってくるため、具体的に「煩悩」を定義できなくなってしまう。
その意味で文明文化を原初にリセットしてと考えたのだが、ここに来てわからなくなってきた。
現代において強制的に人を規制するのは法律であり、他にはない。自分の行いに苦しみを覚えるのは自分自身が誤りであると認識しなければならない。
年寄りに席を譲らなかったことは、面倒だからとして、それを煩悩と感じる人と感じない人がいる。
感じる人は苦しむが、感じない人は苦しまない。
つまり僕は間違っている。
すると正解は、「煩悩」は必ずしも苦しみを生まない、になってしまう。
なんか嫌だが、それが僕の解答です。
jei

キイヤマ
たろう☸️
煩悩はときに、一時的な快楽、幸福を生む
苦しみは自分の思い通りにならないときに感じる負の感情であり
煩悩≒欲望であるとき、欲望が叶えば幸福、欲望が叶わないときは苦しみとなる
欲望がなくなれば苦しまないと言うが、それは人らしくないが、苦しみが脱却する為の真理ではある

おっくん
刹那的、物理的苦痛のみが苦しみならば、少なくとも、それを一時的に避けて生きていくことは可能かもしれないが、全く苦しみのない世界にいることが(おそらく全人類いまだ一人も至ることのない世界だと思うが)、果たして幸せと言えるのか、誰も答えを持ち得ない。
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