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『才能』は、限られた一部の人のみが持っているものか? 万人が持っているものか?

kaz

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才能とは他人が認めるものではなく自分が自覚するものだと思う たとえ他人が否定しても
自分が才能と思えばそれはあなたの才能です
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愛善院

愛善院

バリエーションとグラデーションによる。

「天賦の才」「可能性」などなど

教育現場では少なくとも全ての児に、何らかの才は認められる。大概の場合は腐って芽もでないが。
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コーユー

コーユー

私見ですが、「才能って200万種あんねん」と思っています。なので、才能は万人が持っています。

でも、その才能を開花できるかは、自己理解だったり、環境だったり、運だったり、もちろん本人の努力だったり、様々な要因によるのかと思います。

だから、自分の才能とやりたい事が合っていないと辛いのよねぇ。。。選ぶのは自分ですが
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ほたる

ほたる

全員持っているはず。
じゃなければ世の中に才を持つ人がこんなにいるはずない。
ただ気付いてないだけ
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なぎ

なぎ

何かしらの特性は万人が持ってますけど、才能というのは「実用的な特性」とか「驚く様な特性」という文脈で語られるのが一般的だと思うので、その意味では一部の人にしかないと思います。
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としゆき

としゆき

この質問の『才能』を、限られた一部の人のみが持っている『才能』という風に各分野において突出した能力や業績を達成しうる潜在的能力を指すものだと解釈した場合には、才能のランク、つまり極めて高い度合いの能力を有する人とそうでない人という点が、
才能の発揮領域とその才能を持つ人の実際の才能業績の周囲の人からの認知、並びにもともとからある生体的な身体能力を対象としているかが明確に提示されておらず、
この質問状況においては、これら曖昧な質問状況もあり確定的判断を下すことは非常に不可能であると言わざるを得ない。

つまり、
才能の対象領域を、学術的な極めて高い思考能力を有する知能的才能を指すものであれば、『才能』は、人類歴史上の能力突出者の明らかな存在希少性により、限られた一部の人しか有しないものと言ってもよく、*1
領域を学術領野等における実際に達成した学術的業績を歴史に刻むことで社会一般に才能ある人物として認識される場合であれば、その才能は既成の社会的名声というフィルターの膜によって攪乱されている事が多く、才能を確実なものと判断することは難しくなり確定判断はないと言う回答になり、*2
領域を走行能力といった人間のもとから有する身体的能力の突出性を示す身体的才能を対象として考慮した場合には、何かの競技のような比較分野が欠けていることから、何かの比較を持って形成された『才能』概念とは合致しない、当てはめることはできないと判断せざるを得ない。*3
よって、才能は上記1なら限られた人だけのものとなり、2であればYESともNOともどうとも言えず、3であれば才能の概念とは適合しないから問題には該当しない、とそれぞれ結論できる。
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信長三世®️筑波山

信長三世®️筑波山

才能は誰でも持っているものです。努力して実行し続けた人を天才と呼びます。そして天才を超えた人を天然と呼びます。
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ニギリめし

ニギリめし

ハンディキャップのある人達を除けば、5体満足な時点であらゆる可能性に満ち満ちている。その可能性を才能と呼んでも差し支えないだろうな。
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ぬらぺっちょ

ぬらぺっちょ

個性を活かせば才能と呼ばれるだけ。
個性は誰でもあるし、個性の差なんて大した事ない。
ずば抜けた個性でもただの個性
プロのスポーツ選手は皆優れた身体能力を持ってるが、優れた者同士は能力に大差無い
その中の能力を活かした者がスター選手で才能と呼ばれる
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ゆう

ゆう

万人が持っているでしょう。
それを生かすも殺すも個人次第
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