啓蒙の限界について

takuya talk

愛善院
「学歴」というのが社会的身分の片棒を担いでいるとき、啓蒙とは単に教義のあいまいな宗教になるのです。
puspisrow
でも教えるという行為は成長に欠かせない要因だと思います。

憂い顔の騎士

pophat
どんぐりの背比べに気付けない所が限界点を作るのだと思います。
本来は啓蒙されるべきは常に自分だと言う前提がないと、何で分かってくれないのか。と自分が分からない分野に行き詰まっている矛盾に気付けないのかなと。
単純に、自分が理解しきれない事があるように、相手も理解しきれない事があるだけで、あとは自分の限界と目的次第でしかないかもです。

シンジ

P
中世などでは啓蒙活動は大きな意味がありましたが、現代は多くの人が様々なツールで知を無意識に体験しています。
また啓蒙という言葉には上から目線で無知な人に教えてあげるというような傲慢な印象を与えかねません。
多くの事柄について、啓蒙の限界はきているのではないでしょうか。
啓蒙の限界がないのは新しい宗教を興す時くらいではないでしょうか。

