ははぁ、仏説(と言うには日本風の手垢がついている感が否めないが)「恥を知らぬは畜生道」と言いますねぇ。このあたりは同じく日本的な美醜意識の「浅ましさ」との兼ね合いもありそうです。端的には「自分のメシ(食い扶持)は自分で支度する」あたりに畜生とは違う「恥を知る」部分があるようです。このあたりの近い言葉を漁ると「道理を弁える」「ものごころがつく」「分別の盛り」あたり、これら人倫から外れたことをするのが、浅ましいケモノのようなヤツだということになりましょう。「恥ずかしい」に対しては「恥辱」「屈辱」「照れる」「面映ゆい」「火照る」「顔を赤くする」「顔から火を噴く」などなど、結構な語数もあります。近接に「逆ギレ」や「照れ隠し」などもありますが、おそらく、隠したい何かがある。この隠したいものとは「涙」だと思われます。哺乳類は涙をこぼすように泣くことはあんまりありません。目が情報受信機関として非常に飛び抜けているから、視界がゆがむ「涙」は生理的に危険なのですね。恥ずかしいとは、悔しさ。ケモノよりはマトモだと思っている自分に浅ましさを認めざるを得ないとき、それを心が防衛して、そのストレスを避けようとします。そこで涙の出番ながら、涙にはし難いので、かわりに顔をテカらせて(無意識に我慢して)代替にしているのではないでしょうか。
恥にも色々な種類がありますよね。①質問文にあるように、何かを間違えてしまって恥ずかしい。②恋人同士で手をつなぐのが恥ずかしい。③お笑い等で、恥ずかしい格好をしている人を見るのが面白い。①は、大衆から逸脱してしまうことへの恐怖とも捉えられる。人は一人では生きていけないので、「恥」は集団に留まる「安全」のために必要な感情なのかもしれない。②は一見ネガティブな感情である「恥」を楽しんでいる。喜びに近い。逆に互いに見られて恥ずかしい弱さを曝け出すことに意味があったりする。この場は①と違って、弱さを隠さずとも留まれる場所なんだという「安心」につながる。③は自分には出せない弱さを他の人が曝け出していることで、自分以外にも弱さを持つ人はいるんだor自分よりも大きな弱さを持つ人がいるんだ、と「安心」ができる。恥は安全のために生まれ、安心を感じるための手段にもなり得るのではないでしょうか。
うーん……🤔恥を感じる時って、結局自分が劣っていると感じる・周りからそう見られると思っているって時だから、恥は怒りや苦しみを内包するのでは?🤔例えば、コケて見られたと、笑われたと笑われる=自分が劣っていると思われたとこれを怒り100%で返すなら、見たやつ全員殺しゃいいでもそれが出来ない時に、悔しいという苦しみが生まれ、それが恥になるのでは?
原始時代はお金はなく物々交換で生きていけたみんな仲間だったからだけど徐々にお金を稼いだり、名声を得るようになってから競争率が高くなって生存本能がより強くなった。で恥をかく行動をしてるだけじゃ食い繋ぐのが厳しい人もいるとなって親猫が子どもの猫を見放すためにと同じで親とか先生、近所の先生とかが、社会で生きれるようにそれは恥ムーブだよという流れを作ったんじゃないかと思ってます。