
やぎ
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やぎ
「禁煙」
煙草をやめたきっかけは、白い猫だった。
ある朝、アパートの階段でその猫が僕の前に座り込み、じっと僕の胸ポケットを見つめた。まるで中身を知っているみたいに。
そのポケットには、いつも煙草が入っていた。コーヒーと同じくらい、当たり前の存在だった。僕は猫をどかそうとしたが、猫は動かなかった。その代わり、ひどく静かな声で言った。少なくとも僕には、そう聞こえた。
「それ、もう要らないでしょう」
猫はそれ以上何も言わず、姿を消した。煙草は残った。でも、火をつける理由が見つからなかった。
禁煙を始めてから、世界の隙間が目につくようになった。五分の空白、手持ち無沙汰な指、夜の長さ。煙に変換されていた時間が、元の形を取り戻したようだった。
三日目の夜、夢の中で猫が再び現れた。今度は空き瓶の中から出てきた。瓶のラベルには何も書かれていない。ただ、ふたが外れていた。
「外に出た力は、もう戻らない」
猫はそう言って、尻尾を振った。
一週間後、僕はまだ吸っていない。特別な達成感はない。ただ、世界が少し広くなった気がする。
煙草は瓶の中の魔法だったのだろう。外に出た今、僕は自分の手で、その後始末をしている。それだけの話だ。

やぎ
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「自炊」
佐伯が急に自炊を始めたと聞き、私は首をかしげた。
仕事帰りに弁当を買い、週末は外食。十年以上変わらなかった男だ。包丁を握る姿など想像もできない。
だが彼の冷蔵庫には、きちんと切り分けられた野菜と、日付を書いた保存容器が並んでいた。無駄がない。まるで実験記録のようだった。
理由を問うと、佐伯は答えなかった。ただ、「一度、失敗してね」と言ったきり黙った。
後で知った。
彼は以前、母親の異変に気づかなかった。電話一本、食事一回、それだけで防げたかもしれない事態だった。だが彼は忙しさを理由に、出来合いのものを口にし、帰宅を遅らせた。
自炊は健康のためではない。節約のためでもない。
誰かに「ちゃんと向き合う」訓練だったのだ。
火を使い、時間を計り、味を確かめる。そのすべてが、自分の手を離れない。失敗すれば、原因は明確だった。
「外食は便利すぎる」
佐伯はそう言った。便利さは、ときに責任の所在を曖昧にする。
ヒーローは特別な力を持たない。
面倒な工程を引き受け、逃げない選択を続ける人間のことだ。
佐伯は今日も台所に立つ。それだけで、十分だった。
