
ドライアイの人

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生きているから苦しむ、最初から生まれてこなければいい、そういうのと構造的に似てる。

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エレンとジークの人類大虐殺に為す術ない中、ふと「道」の砂場で我に返ったアルミンに、ジークは、生物は増えることが目的で、それに沿わない行いには意味がないと説く。
それに対し絶望するアルミンは、砂の中の落ち葉を手に取り、子供のときにエレンとミカサと3人で、唐突に走り出した記憶を思い出す。
そのとき、アルミンは、風に舞う枯れ葉の中、3人でかけっこをするために生まれてきたんじゃないかと思ったと言話す。アルミンは言う。「この なんでもない一瞬がすごく大切な気がして…」
アルミンの手に取った落ち葉は、ジークには、クサヴァーさんとキャッチボールした野球ボールに見えていた。
ジークは、その話に愕然とし、自分はクサヴァーさんと、ただキャッチボールをしているだけでよかったのだと話す。
ここに、わたしは人間が生物である目的とは別に、なぜ人間が生きているのかという、ひとつの示唆があるように思った。
ーーこれは、大江健三郎のいう次の話に重なる。
この一瞬よりはいくらか長く続く間、という言葉に私が出会ったのはね、ハイスクールの前でバスを降りて、大きい舗道を渡って山側へ行く、その信号を待つ間で…… 向こう側のバス・ストップの脇にシュガー・メイプルの大きい木が一本あったんだよ。その時、バークレイはいろんな種類のメイプルが紅葉してくる季節でさ。シュガー・メイプルの木には、紅葉時期のちがう三種類ほどの葉が混在するものなんだ。真紅といいたいほどの赤いのと、黄色のと、そしてまだ明るい緑の葉と…… それらが混り合って、海から吹きあげて来る風にヒラヒラしているのを私は見ていた。そして信号は青になったのに、高校生の私が、はっきり言葉にして、それも日本語で、こう自分にいったんだ
よ。もう一度、赤から青になるまで待とう、その一瞬よりはいくらか長く続く間、このシュガー・メイプルの茂りを見ていることが大切だと。生まれて初めて感じるような、深ぶかとした気持で、全身に決意をみなぎらせるようにしてそう思ったんだ……。
(大江健三郎『燃え上がる緑の木 第一部』)
ーー進撃の巨人のこの回は、人間というものの種明かしだったんだと思う。人間は生物である以上に何者かであるという。

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(谷川俊太郎インタビュー「語る 人生の贈りもの」朝日新聞、2018)
ラカンが「女なるものは存在しない」と言ったのは、母こそが存在するということを理解させるためであった。母はいる。Si Lacan a dit La femme n'existe pas, c'était pour faire entendre que la mère, elle, existe. Il y a la mère. (Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME, 2015)

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「平和」という実体があるんじゃなくて
“戦争でない状態”をまとめて平和と呼んでいるだけで、逆も然り。別の状態との差異があって初めて名前が生まれるんではないでしょうか。

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それは、言葉を書くときも同じで、選ぶ言葉や表現、書いている途中から頭の中で読み上げた言葉が口の中で震え腹に響く、その感覚に至るまで感じ取りながら選ぶようになったように思う。言葉の響きのキレの良さやその残響まで、それこそ腑に落ちるまで消化するような。
眼が良く見えていたときより、言葉を書いたり話すのが酷く疲れるようになってしまったようだ。

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それはおそらく大切なものを失った空虚さと、喪失の重さとが、奇妙に釣り合った状態によるものだと思う。

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⇒文学というのを芸術のひとつだと捉えた場合、母というのは子を宿し、子を産む、それは人間の創造の故郷であり、芸術の源である。
そのような母が文学の故郷だと考えるのは容易い。
母というのは失った存在として有り、女というのは失っていない幻として有る。私たちが女に夢を見るのは、母が失われた故郷だからではないのか。そうであれば、私たちは夢と戯れるのではなく、喪失の周りを歩かなければならない。そうして初めて、女は母へ通じるものとなるのではないか。

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他者から見てそれがわからないほど
その人の大切にしてる気持ちは大きく
それを誰かに知って欲しいとは思ってない
さらに言えば、知られたくないとすら
思っているかもしれない。

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(プルースト「ソドムとゴモラ Ⅱ」 井上究一郎訳)
葬送のフリーレンの話の中で、勇者ヒンメルの故郷の花である蒼月草の話しがある。
弟子となったフェルンが、フリーレンになぜそんなに魔法集めをしているのかと問い、フリーレンは趣味だと答える。フェルンはフリーレンの魔法集めへの執着を不可解に思っているが、フリーレンはヒンメルたちとの思い出をいま現在の魔法集めによって回収しているという一面がある。
フェルンはそれがゃかく分からないのだが、これは他人から見た場合、その人がなぜそれを好んでいるのかわからないという不思議さがある。
これは、先程のプルーストの引用の最後にある「すきま風がお好きなんですね」という部分に重なる。
これは、他者と共有できないその人固有の美しさと言ってもよい。
すきま風が好きなのではなく、すきま風が連れてくるものに頬を撫でられている喜びと言ってもよい。

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もともとそんな前提なんかないのだと、単に露になっただけだと理解しろというのだろうか。
虚構だって、みんなある程度すがって生きてるでしょ?それは虚構に過ぎないって言葉は、生きるものの権利を剥ぎ取ることに近い。
ただ、そういうときに落ち込む必要はなくて、自分がすがる虚構がみんなより小さくなったと思っていいし、そうして生きる権利があるということだ。

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本当の意味では欲望できないんじゃないか

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なぜ必ず“形”を経由してしまうのか

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世界の静けさに触れる
世界の入口の形をしている
屹立した言葉を
深く突き立てると
世界はおかしくなる

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自分と世界の距離を
忘れては思い出す


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どのような強度で身体に触れてきたか
私たちと世界の距離感を
いまは言葉で測っている

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瞬時に重要度の高いものとして言葉を位置づけている人の場合、その言葉の意味内容や理解以前に、その言葉が持つ響きや語感、かけられた言葉の圧力などによって程度の差はあれ身体的な反応を引き起こす。
これは理解ではなく出来事のレベルで起こっている話である。 大別すれば言葉を理解する主体(意識)と言葉を浴びる主体(身体)の違いがある。
これとは別に、言葉の意味内容に悪意や非難が隠されているんじゃないかと心配する場合もあるが、それは言葉以前の段階とは異なる状況である。大人になって新たに言葉による身体的な反応が形成される場合といってもいい。
しかし、身体に浴びた出来事としての言葉の強さは、言葉を意味内容として理解する場合に著しい支障をきたすのではないかと思われる。
浴びた言葉の体験が強すぎれば、その言葉を理解するレベルで、正常な意味内容の理解に障害を残すものとなるのではないかと思われるのである。恐怖や不安による言葉の歪んだ理解。
まず、言葉は意味以前に音調であって、その響きが身体に刻印されているのは、概ね成人言語の世界に入る時期より前か、その過渡期であろう。 その時期に身体に封印されている言葉の音調は、同じような響きを持つ言葉をかけられた時、似たような状況でかけられた時などに身体的な反応として漏れ出てしまう。 そのとき起こっていることは身体的な反応のタイムスリップだといってもいい。


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最低ラインを守るためにあるって方が正しい場合がある

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(ドゥルーズ『ディアローグ---ドゥルーズの思想』)

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(カフカ 親友オスカー・ポラックへの手紙 1904年1月27日)

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順応しよう、帰属しよう、参加しようという衝動にたえず駆り立てられている俗物は、二つの渇望のあいだで引き裂かれている。一つは、みんなのするようにしたい、何百万もの人びとがあの品物を褒め、この品物を使っているから、自分も同じものを褒めたり使ったりしたい、という渇望である。もう一つは排他的な場、何かの組織や、クラブ、ホテルなどの常連、あるいは豪華客船の社交場(白い制服を着た船長や、すばらしい食事)に所属し、一流会社の社長やヨーロッパ の伯爵が隣に座っているのを見て喜びたい、という渇望である。
(ナボコフ『ロシア文学講義』)

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それ自体はただのインクのシミや金属の塊に過ぎないわけだけど、よくわかんない力みたいなもの宿してるしね。

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吉田城先生の『草稿研究』にめぐりあって、テクスト生成の過程の片鱗を知ってから、私の中の精神科医がにわかに目覚めたのであった。精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。
そのテクストは必ずしも言葉ではない。言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは?
私たちは星座をみるのではない。 星座はコンヴェンションだ。むしろ、新しい星のつながりのための補助線を引く。いやむしろ、暗黒星雲を探し求める。 語られないことば、空白域の推論である。資料がなければ禁欲する歴史家と、そこが違う。
また、時に、私たちは患者の書いた日記などを読む。 患者がみて育った風景をみにゆく。さらに、時には、患者の死への道行きの跡を辿る。 患者の読んだ本を、あるいは郷土史を読む。それがすぐに何になるわけでもないが、そんなことをする。
テクスト生成の研究者は、もちろん草稿なしには語らない。その点では私たちよりも歴史家に似ているだろう。しかし、膨大な草稿の中で次第にテクストが選ばれてゆく過程を読むと、私には近しさが感じられる。それはものを書く時に、 語る時に、私たちの中に起こっていることだ。 患者の中にもおそらく起こっていよう。ただ、重症の患者の中では、揺らぎや置き換えが起こらない。しかし、治癒に近づくと彼ら彼女らの文章はしばしばそんじょそこらの〝健常者"をしのぐ。病いにはことばをきたえ直す力さえあるのだろうか?
草稿一つで鬼の首でもとったように、吉田先生は決してなさらない。その歴史を、しばしば現地で裏付けされる。隠し味になっているものはもっと多かろう。精神科医はたいていの場合には当人にきくことができる。『草稿研究』には画家の場合も出てくるが、精神科医のアートセラピーならば、筆のためらい、丁寧に描くところ、そそくさと終えるところ、描く順序、空白に残すところ、その間の表情の変化、時たまのつぶやき、稀にそこから発展する会話を、場を共にしつつリアルタイムで知ることができる。 文学研究者にはない特権である。
ところが、『草稿研究』 の吉田先生は、このハンディキャップにもかかわらず、草稿とその生成過程と背景とを、時には、私たちがその特権によって到達できる位置に迫っておられるのだ。俊敏で勤勉な精神の長き持続の栄光である。
些細な形容詞の変更、時称の選択、何よりも捨てられた草稿、置き換えられた表現、思い切った削除――これらによってテクストが一変する。その前の痕跡をそれとわからぬほどにみせながら――。これはほとんど私たちの推論そのものだ。いや、九九パーセントの精神科医はその安易な特権を十分活用していないであろう。もちろん、私たちは臨床家であって、知的興味に放埒に浸ることは非とされるが、臨床の場で必要な知的謎解きの静かな興奮は許していただきたい。それなくばそもそも仕事になるまいからである。
もちろん、プレイヤード版の校訂編集の完成は画期的なことである。 足場をとっぱらって建築が初めて建築家の意図した姿をわれわれの眼の前に現すように、完成されたテクストはかけがえないそれ自体の価値を持つ。
しかし、草稿研究の一端をかいまみたのち初めて、『失われた時を求めて』 は立体的で重層的で星雲的なものに見えるようになった。私の中の精神科医が目覚めた。精神科医は精読家 liseur ではないが、ためらい、選び、捨て、退き、新たな局面を発見し、吟味して、 そして時に棄却し、時に換骨奪胎する精神の営み、そういうテクスト生成研究の過程を身近なものに感じる。私は、先生の『草稿研究』を読むとき、あるいは内容を駅頭で思い出す時でさえ、ほとんど喜悦のあまり、胸郭のおのずと広がる思いがするのである。
(中井久夫「吉田城先生の 『 「失われた時を求めて」 草稿研究』 をめぐって」初出2007年『日時計の影』所収)


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(モンテーニュ『エセー』第3卷1章)

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