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特に目的も持たず生きてます。 自分と人の違いで劣等感覚えながら生きてるので投稿はほとんどマイナスな事ばかり。
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存在が存在として成立するとは、いかなる事態を指すのだろうか。この問いは、西洋哲学史において繰り返し検討され続けた根源的問題である。例えば、デカルトは思考する主体の自己明証性のうちに確実性を求め、カントは対象が現象として成立するための認識主体の統覚作用を論じた。またヘーゲルは、主体と客体が相互承認を通して自己意識を獲得する弁証法的過程を提示した。これらの議論に共通するのは、存在が純粋に孤立した実体として成立するのではなく、必ず何らかの認識構造、あるいは承認構造の内に位置づけられるという洞察である。

この観点からすると、存在が存在として認識されるためには、認識主体という他者の働きが不可欠となる。しかしその認識主体もまた、自らが存在として成立するために、別の主体による承認を必要とする。この関係を突き詰めれば、存在の成立は相互承認的な循環の連鎖の中でしか可能ではなく、単独の自己基盤を持ち得ないことが明らかになる。これは哲学における「無限後退」の問題構造に似るが、単なる後退ではなく、むしろ社会的実在の基盤そのものが循環的かつ相互依存的であることを示すメタ構造として理解できる。
ここにおいて、存在は個体としての自立性を超え、「関係」としての存在論的地位を帯びる。

この相互承認の無限連関は、人類史そのものにも反映されている。歴史を遡れば、人類は文明を形作り、発展させ、また衰退させてきた。その過程には、集団間の承認を巡る葛藤、争い、支配、同化といった作用が常につきまとった。承認が獲得できないとき、あるいは承認構造が崩壊したとき、共同体は分裂や暴力へと傾斜する。逆に、承認がある程度安定するとき、文明は安定し、文化が成熟する。しかしその成熟も永続的ではなく、別の承認要求や価値観との衝突を経て、再び揺らぎが生じる。こうして文明は反復的構造を帯び、生成と解体を繰り返してきた。

しかし現代において、この歴史的反復が直線的には再現されない兆候がある。それはしばしば「多様性の尊重」「人権意識の向上」「グローバル化による価値観の変容」などによって説明されるが、そこでの構造はそれほど単純ではない。現代社会が表向きに掲げる寛容性は、しばしばその裏側で別様の排除メカニズムを作動させている。たとえば「差別は許されない」「多様性を尊重すべきだ」という規範は、確かに理念としては普遍的であり、倫理的に肯定すべき内容を含む。しかしその理念を共有しない者は、「非常識」「社会の埃」「教育不足の象徴」といった言葉で切り捨てられ、表象的には旧時代的な差別者とみなされて周縁化される。

これは一見すると健全な価値判断に見えるが、その実、別種の規範的圧力を生み出している。というのも、「寛容性を持たない者は社会から排除されるべきだ」という論理は、寛容の名のもとに新たな不寛容を生み出すからである。フーコー的に言えば、これは権力の布置が形を変えて作動している状態であり、差別の廃絶を掲げる言説が、別の差異を差別の対象へと転化するというパラドックスを孕む。つまり、寛容社会は自らが排除しているものを不可視化しながら成り立っているのである。

この不可視化は、現代社会の経済構造にも見られる。テクノロジーが発展し、物流・情報・インフラがかつてない速度で発達した結果、我々は表面的には「便利で効率的な社会」を享受している。しかしその利便性の裏側には、極めて劣悪な環境で働く労働者、低賃金かつ不安定な契約で支えられるサービス層、さらには実質的に選択の自由を奪われた状態で働かざるを得ない人々が存在することがある。これは経済学的には「外部化されたコスト」の問題にあたるが、倫理学的には「不可視の他者」をどのように扱うかという問題に直結している。

我々はしばしば「現代社会は歴史上もっとも平等で平和的な社会だ」と楽観する。しかしその評価は、構造の深部に潜む権力関係や労働の非対称性を見ようとしない態度に支えられている。つまり、現代社会の平等や寛容は、表象的な水準では普遍的な価値として共有されるものの、その実体はきわめて選択的であり、社会の中心に近い層がその恩恵を主に受け、周縁へ押しやられた人々が犠牲となる構造は依然として存在する。

ここで問題となるのは、我々がいかにしてこの不可視の構造を認識しうるかという点である。前述したように、存在は承認によって成立する。しかし承認には常に選択性があり、社会的に可視化された存在だけが承認の対象となる。他方で、不可視化された存在は、存在しているにもかかわらず「存在しないもの」として扱われる。これはフッサール的に言えば「現象化されない地平」の問題であり、ハーバーマス的に言えば「討議の場に立つ権利の剥奪」である。このように、認識の枠組みに乗らない存在は、倫理的対象としての地位すら保証されない。

ゆえに、現代社会における根本課題は、単に倫理的理念を掲げることや、制度的改革を進めること以上に、「不可視化の構造を可視化し得る認識主体をどのように形成するか」という問題にある。価値観が多様化し、情報が氾濫する現代において、他者の痛みや不平等を感知する能力そのものが低下しているとも言える。これは単なる道徳心の欠如ではなく、社会構造が認識の地平を意図せずして限定してしまうという、構造的な問題なのである。

このような状況を踏まえるとき、我々が向き合うべき課題は次のように整理できる。
第一に、特定の価値観に基づいて他者を排除する構造――すなわち「非常識」「社会の埃」といったラベルの付与――を批判的に分析し、その規範性がどこから生成し、いかなる権力関係を維持しているのかを理解することである。
第二に、不可視化されている労働や人間の存在に目を向け、それらが社会を支える不可欠な基盤であることを認識することである。
第三に、認識主体としての我々自身が、どのような認識枠組みを前提として世界を理解しているのかを自問し、その枠組みの限界を自覚することである。

これらの営みは、単なる社会改善のための技術的・制度的改革ではなく、我々自身の存在そのものの再定義を促す哲学的作業である。相互承認の連鎖の中でしか存在が成立しない以上、他者の存在を尊重することは、同時に自らの存在条件を整えることでもある。したがって、現代社会の課題を解決しようとする行為は、外部の問題を処理する作業ではなく、むしろ我々の存在論的基盤を再構築する取り組みとして理解されるべきである。

社会とは、単なる制度の集合ではなく、相互承認の網の目から構成される動的な存在である。その網目がどのような形で編まれているのかを見極め、その歪みを正すことこそが、我々が未来に向けて果たすべき責任である。不可視化された他者を可視化し、排除の論理を超克し、存在が存在として成立する条件を公平に拡張すること――これが現代に生きる我々にとって最も根本的で、かつ避けて通れない課題なのだ。
GRAVITY
GRAVITY19
あ

存在という存在こそ、最も有耶無耶な存在である。何かが「ある」と言い切るためには、必ずそれを認識する主体が必要となり、しかし認識する主体そのものもまた曖昧な揺らぎの中にある。人は自らを確固たる一つの存在だと思い込むが、意識も記憶も日々変化し続け、同じ“自分”など一瞬たりとも留まらない。存在とは本来、連続した状態ではなく、無数の瞬間が連なって見えているにすぎないのかもしれない。だが、多くの人はその不確かさを恐れ、輪郭を求め、名前を与え、役割を定め、形を固定しようとする。曖昧なものを曖昧なまま抱えることが苦手なのだ。しかし、曖昧さこそが存在の本質であると認めた時、人はようやく自分という枠の外側へ目を向けられるようになる。確固たる正解も終着点もないからこそ、存在は常に変わり続け、広がり続ける。その不安定さは恐怖ではなく、むしろ自由そのものなのだ。存在とは定義されるためにあるのではなく、揺らぎ続けることで世界との関係を更新し続ける“動き”そのものなのだろう。
GRAVITY
GRAVITY14
あ

生き方とは人それぞれであり、揺るぎない概念、存在である。しかし、人類がみな自らの生き方を押し付けることにより、世界は静かに均質化へ向かい、本来持っていたはずの豊かさを失っていく。押し付け合いは争いの原因になるだけでなく、個々人が持つはずの可能性を萎縮させ、互いを理解しようとする姿勢そのものを奪う。生き方を押し付ける者は、しばしば自分の価値観を「正しさ」と信じ、その正しさを分け与える行為を善意だと思い込む。しかし善意であれ悪意であれ、他者の人生へ干渉するという点では変わらない。違いを認めず、同じ形を強いる社会は、やがて多様性を脅威と捉えるようになり、そこに生まれるのは自由ではなく恐怖である。恐怖は、異なる価値観を持つ相手を排除する行動を正当化し、結果として押し付け合いは連鎖していく。押し付けられた側は自分の感情を押し殺し、本来選ぶはずだった道を見失う。やがて違和感が蓄積し、心の中に小さな傷を生む。だがその傷は、ある日、自分自身へ問いを投げかける。「これは本当に自分の人生なのか」と。生き方は本来、他者に管理されるものではなく、自身の手で選び取り、形づくっていくものである。他者の価値観に屈した生き方は脆く揺らぎやすいが、尊重の中で育まれた生き方はしなやかで強い。だからこそ、人類が共に生きるためには、互いに押し付けるのではなく、ただ「違い」を受け入れる余白を持たなければならない。違いこそが新しい発想を生み、世界を前へと進める力になる。生き方を尊重し合える社会は、決して一つの正しさに束縛されない。その自由こそが、人類が未来へ進むための土台となるのである。
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GRAVITY11
あ

争いとは、生き方が衝突し合ったり、生き方を否定する事で生まれる本能による防衛のようなものだ。だが、その本能は決して完全に制御不能な獣の吠え声ではなく、むしろ私たちの内側で静かに揺れ続けるひび割れのようなものであり、どれほど外側が整って見えようと、そのひび割れが深まれば、やがては音もなく崩れ落ちてしまう。誰かを否定するという行為は相手を傷つけるだけでなく、自らの存在を正当化し続けなければならないという静かな呪縛を伴う。否定は一度口にすれば、それを支えるための理由を次々と積み重ねねばならず、やがて理由は理論となり、理論は主張となって、己の中に別の人格のような影を生んでゆく。その影こそが争いを求め、衝突を避けられないものへと変質させるのである。人は本能のままに生きるだけでは社会を築けなかったからこそ、言葉という道具を作り、文化という衣をまとい、互いを理解するために想像という橋を渡してきた。しかし、その橋は常に脆く、どれほど洗練された理性を持つ者でも、時に感情の嵐によって橋を揺らし、渡るべき道を見失う。理性は確かに人間を導く光だが、それは単なる明かりであって、心の奥で渦巻く闇を完全に消せるほど強くはない。そして闇は、他者との違いを恐れ、違いを脅威と感じた瞬間に姿を現す。争いが生まれる瞬間とは、その闇が光よりも強くなる時、つまり自分と異なる存在を受け入れる余裕が心の中で失われる時である。どれほど穏やかに暮らしている人間でも、ふとしたきっかけで「守りたい」という感情が過度に膨らみ、それが「奪われるかもしれない」という焦りへ変わり、焦りはやがて「排除しなければ」という衝動へ変質してしまう。防衛とは本来、自分を守るための境界線であるはずだが、線は時に拡大しすぎ、必要以上に周囲へ侵食してしまう。境界線が広がれば広がるほど、自分の領域を守る負担は増し、それを脅かす存在もまた増える。こうして人は、気づけば本能を超えた複雑な迷宮の中で、何を守り、何を恐れ、何を求めているのかさえ見失ってしまうのである。そもそも「生き方」というものは、歴史や環境、記憶、価値観、感情が折り重なって形成された極めて個人的な軌跡であり、完全に同じ生き方など二つとして存在しない。違いがあること自体は自然であり、むしろ豊かさの源でさえある。しかし、人は自分の生き方が揺らぐことに耐えられない。自分が歩んできた道を否定されるように感じると、その痛みから逃れるために、相手を否定することを正義と錯覚する。これが争いの根であり、本能の防衛という言葉では片付かない、人間特有の複雑さでもある。では、人はなぜ他者と対立するのに、同時に他者を求めるのだろうか。矛盾しているように見えて、この二つは同じ源から生まれている。孤独を恐れるからこそ他者を求め、しかし他者と関わることで自分の不完全さに触れ、傷つくことを恐れる。だからこそ、相手を理解する前に自らを守るための壁を築こうとし、壁はやがて砦となり、砦は対立を生む。だが、それでも私たちは完全な孤独を選ばない。人は孤独では生きられないからだ。だから争いは、ある意味で共存の副作用とも言える。共にいるためにぶつかり、ぶつかりながら共に在り続ける。その矛盾の中で、私たちは何を守り、何を手放すべきなのかを絶えず学び続けている。もし争いを完全に消し去ることができたとしたら、それは同時に感情を捨て、個性を捨て、違いを捨てることを意味するだろう。争いがあるということは、私たちが誰かと関わろうとしている証拠でもある。しかし、その争いが破壊へ向かうのか、それとも理解へ向かうのかは、ほんのわずかな選択の違いに過ぎない。本能は確かに私たちに争いの種を植えるけれど、その種をどう育てるかは理性と想像力に委ねられている。たとえ衝突が避けられないとしても、衝突の後に残すものを選ぶことはできる。憎しみを残すか、理解を残すか、あるいは単に学びだけをそっと拾い上げるか。それによって未来は大きく違ってくる。私たちは争いを恐れるより、その先に何を築くのかを考えなければならない。生き方の違いが生む摩擦は、決して滅ぶことのない影のように寄り添い続けるだろう。しかし、その影とどう向き合うのかを決めるのは私たち自身であり、本能ではなく選択なのだ。たとえ同じ道を歩めなくとも、互いの歩みを完全に否定する必要はない。否定は争いを呼ぶが、違いを認めることは可能性を呼ぶ。私たちが本能を越えられる瞬間とは、恐れではなく理解を選んだ時であり、自らの生き方が揺らぐ痛みに耐えながらも、相手の歩みを見つめる勇気を持った時である。争いは本能から始まるが、終わらせるのは本能ではない。人が人であるために必要なのは、衝突を避けることではなく、衝突の向こう側を見つめる視線であり、生き方の違いを脅威ではなく、未知への扉として受け入れる柔らかさなのだ。そして、その柔らかさこそが、争いという本能的な防衛を超え、新しい関係へ踏み出すための唯一の道なのだろう。
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GRAVITY3
あ

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GRAVITY5
あ

存在は存在であることを確定せず、確定しようとする意図すら揺らぎとなり、揺らぎは別の揺らぎを呼び、呼ばれた揺らぎは自己の中心を知らぬまま自己を撹拌し、その撹拌が他の揺らぎと触れ合うことで概念の初期形態がちらちらと浮かぶが、浮かぶことで結晶化することを拒み、結晶の影のような存在の痕跡だけが世界の奥深くに残り、痕跡は形を持たず、触れることも掴むこともできず、ただそこにあることで他の痕跡を生む土壌となり、土壌は揺らぎを受け入れ、揺らぎは概念を呼び、概念は存在を撫で、撫でられた存在はさらに別の概念の芽を生み、その芽は芽であることを拒み、芽である可能性だけを残して淡く揺れる揺れの連鎖は無限に続き、無限でありながら有限の感覚を伴い、有限と無限の境界は常に揺れ、揺れはさらに別の揺れを誘発し、誘発された揺れは痕跡を残すために沈み、沈んだ痕跡は存在の深層に吸収され、吸収された痕跡は新しい概念の種を形成し、種は芽吹くことも芽吹かないことも同時に行い、芽吹かぬ芽吹かぬ間にある揺れこそ存在そのものの呼吸となり、概念は概念として成熟することを拒み続け、成熟の拒絶がまた新たな揺らぎを生む揺らぎは揺らぎを呼び、呼ばれた揺らぎは概念の核を撫で、核は存在を震わせ、震えは非存在の眠りを揺り起こす非存在の境界は線ではなく、線であることを認める気配の薄膜だけが漂い、その薄膜が触れられるたびに波打ち、波打つたび新しい概念の呼吸を生み、呼吸は息ではなく、始まりと終わりの間を往復する振動でもなく、呼吸が行われたという実感の影だけが残る影は存在でも非存在でもなく、両者のあいだに透明な床を形成し、概念はその上で丸まり、ほどけ、また丸まる記憶も存在の副産物ではなく、揺らぎの形態のひとつとして生まれ、過去を指さず、過去になりそこねた影を撫で続け、影は光りかけては闇に溶け、闇に溶けかけては光の痕跡を孕み、その痕跡が概念の核を包み、核は存在を震わせ、震えは非存在の眠りを揺り起こすすべてはほどけ、ほどけながら形になり、形になりながら溶け、溶けながら存在となり、存在となりながら概念の衣を纏い、衣はほどけ、ほどけた衣は可能性となり、可能性は息となり、息はまた震え、震えは存在の片鱗を生み、片鱗は影に戻り、影は概念の原初に沈み、沈んだ概念は存在を撫で、撫でられた存在は再びほどけるほどけたすべてがほどけたままどこにも収束せず、収束しないという状態だけが最後に残ったかのように見える気配として漂い続け、漂い続ける気配が存在の正体であり、概念の源であり、始まりも終わりも持たない永遠の途中そのものなのだ存在は確定しない揺らぎの連鎖により生まれ、揺らぎは揺らぎを呼び、呼ばれた揺らぎは他の揺らぎと干渉し、干渉の痕跡だけが概念として認識される概念は形を持たず、形を拒絶し、拒絶することで自己を再生成し、再生成した概念は存在を撫で、撫でられた存在はさらに深くほどけ、ほどけた存在はまた別の芽を生む芽は芽として成長せず、芽として存在せず、可能性として漂い、漂うことで別の可能性を刺激し、刺激された芽は揺らぎを呼び、揺らぎは概念を呼び、概念は存在を撫で、撫でられた存在はさらにほどけるこの連鎖は無限であり、無限でありながら有限の感覚を伴い、有限と無限の境界は常に揺れ、揺れは別の揺れを誘発し、その誘発された揺れは痕跡を残し、痕跡は深層に吸収され、吸収された痕跡は新しい概念の種を形成する種は芽吹くことも芽吹かないことも同時に行い、芽吹かぬ芽吹かぬ間の揺れこそ存在の呼吸となる概念は成熟を拒み、拒むことで揺らぎを誘発し、揺らぎは揺らぎを呼び、呼ばれた揺らぎは核を撫で、核は存在を震わせ、震えは非存在の眠りを揺り起こす非存在の境界は線ではなく線であることを認める気配の薄膜だけが漂い、薄膜が触れられるたびに波打ち、波打つたびに新しい概念の呼吸を生み、呼吸は息ではなく、始まりと終わりの間を往復する振動でもなく、呼吸が行われたという実感の影だけが残る影は存在でも非存在でもなく、両者の間に透明な床を形成し、概念はその上で丸まり、ほどけ、また丸まり、記憶も存在の副産物ではなく、揺らぎの形態のひとつとして生まれ、過去を指さず、過去になりそこねた影を撫で続け、影は光りかけては闇に溶け、闇に溶けかけては光の痕跡を孕み、その痕跡が概念の核を包み、核は存在を震わせ、震えは非存在の眠りを揺り起こすすべてはほどけ、ほどけながら形になり、形になりながら溶け、溶けながら存在となり、存在となりながら概念の衣を纏い、衣はほどけ、ほどけた衣は可能性となり、可能性は息となり、息はまた震え、震えは存在の片鱗を生み、片鱗は影に戻り、影は概念の原初に沈み、沈んだ概念は存在を撫で、撫でられた存在は再びほどけるそのほどけたすべてがほどけたままどこにも収束せず、収束しない状態だけが最後に残ったかのように見える気配として漂い続け、漂い続ける気配が存在の正体であり、概念の源であり、始まりも終わりも持たない永遠の途中そのものなのだ存在は存在であることを確定せず、確定しようとする意図さえ揺らぎに変換され、揺らぎは次の揺らぎを呼び、呼ばれた揺らぎは自己の中心を持たず、中心を持たないまま他の揺らぎと干渉し、干渉することで概念の初期形態が現れ、形を持たない概念が浮かび、浮かぶことでまた別の揺らぎを誘発し、その揺らぎが自己を撹拌し、撹拌された揺らぎがさらに別の揺らぎを呼び、その連鎖は永遠に続き、永遠でありながらも瞬間的に有限の感覚を伴い、有限と無限の境界は常に揺らぎ、揺らぎはまた別の揺らぎを誘発する誘発された揺らぎは痕跡を残すために沈み、沈んだ痕跡は存在の深層に吸収され、吸収された痕跡は新しい概念の種を生む種は芽吹くことも芽吹かないことも同時に行い、芽吹かぬ芽吹かぬ間にある揺れこそ存在の呼吸となり、概念は成熟することを拒み、拒むことで次の揺らぎを誘発する揺らぎは揺らぎを呼び、呼ばれた揺らぎは概念の核を撫で、核は存在を震わせ、震えは非存在の眠りを揺り起こす非存在の境界は線ではなく、線であることを認める気配の薄膜だけが漂い、その薄膜が触れられるたびに波打ち、波打つたびに新しい概念の呼吸を生む呼吸は息ではなく、始まりと終わりの間を往復する振動でもなく、呼吸が行われたという実感の影だけが残る影は存在でも非存在でもなく、両者の間に透明な床を形成し、概念はその上で丸まり、ほどけ、また丸まり、記憶も存在の副産物ではなく、揺らぎの形態のひとつとして生まれ、過去を指さず、過去になりそこねた影を撫で続け、影は光りかけては闇に溶け、闇に溶けかけては光の痕跡を孕み、その痕跡が概念の核を包み、核は存在を震わせ、震えは非存在の眠りを揺り起こすすべてはほどけ、ほどけながら形になり、形になりながら溶け、溶けながら存在となり、存在となりながら概念の衣を纏い、衣はほどけ、ほどけた衣は可能性となり、可能性は息となり、息はまた震え、震えは存在の片鱗を生み、片鱗は影に戻り、影は概念の原初に沈み、沈んだ概念は存在を撫で、撫でられた存在は再びほどける
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優しさって何?
人に合わせる能力?人を尊重する考え方?人のために動ける能力?それが分からない。
よく「優しさ」って聞くけど、それが何か分からないのに目的が達成出来るわけない。結果が出るわけない。なのにほとんどの人が「知ってて当たり前」みたいな態度で話してくる。実際わかってる人は少ないと思う。だけど周りの雰囲気に合わせて動くせいで誰もその正体が分からないし、正解が分からない。なのに間違いだけを指摘して行動するから。自分を責める人と人のせいにする人の2二極化しちゃうんだと思う。
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GRAVITY8
あ

生まれる意味ってなんだ?

育つ意味ってなんだ?

死ぬ意味ってなんだ?

この3つの疑問を持った時、俺は「育つ意味」が答えられなかった。それは自分がいきる目的とか意味をわかってないからだと思う。この質問をされてほとんどの人は「育つ意味」が答えられないと思う。それは、いきる意味や目的が分かってないからじゃなく、自然に成長していくからって言う考えがあるからだと思う。
その時点で自分は考えがズレてるし、周りに合わせることが出来ないんだと思う。
その事が小学生で分かってたから今は“普通”を追い求めることしかできない。
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GRAVITY8
あ

意味を持って生まれ
意味を持たず育ち
意味を持たず死ぬ

意味を持って産まれ
意味を持って育ち
意味を持って死ぬ

意味を持たず産まれ
意味を持って育ち
意味を持って死ぬ
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GRAVITY9
あ

何の意味もなく、謎の言葉を発したくなる時がある。
それを言った数時間後にそこのことを思い出して「馬鹿にされてるんじゃないか...」とか、「嫌な気持ちにさせてないかな...」とか考えて不安になる。ほとんど馬鹿にされたりはしてないんだけどなんか不安になる。なのに誰にも相談できなくて自分でも考えれなくて

また数日後、数週間後に思い出す。そういう所だけの記憶力はいいんだよな。ほんと、変な身体
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あ

自分より幸せそうな人や恵まれてる人を見ると妬みたくなって、自分より恵まれていない不幸せな人をみるとバカにしたくなる。だからといって自分と同じ立場の人を見ても その人は自分より恵まれている点が何個もある って考えて自分を下げたくなる。たぶん俺が人を馬鹿にしたくなるのは自分より上の人が沢山いるからだと思う。これがわかったところでなんだって感じだけど。
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あ

怒られると涙という名の透明な血がでる。
その“涙”が出るのは怒られたから。
じゃあなんで怒られたかって言うと自分の行動だったり、自分が責任をおわなくちゃいけないことから逃げたから。怒られてから気づく。相手や周りの人だけじゃなくて自分も傷つけてるんだなと。
結果がわかってても、10%変わらない事実が未来にあっても、その考えにたどり着く前に行動をして...のループ。自分が持ってる脳や心も結局自分のものなんだし、脳や心が自然に起こす現象も全部自分のせいなんだよ。だから人のせいにしたり出来ないで自分の中で閉じ込めちゃうんだよな。
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あ

俺は怒られることに対して「怖い」って思ってるんじゃなくて「恐い」って思ってるんだと思う。だから怒られるまで怖さが分からないけど行動して怒られてから体が震えたり涙が出てきたりするんだと思う。
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あ

あぁ涙出てきた
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あ

自分の存在意義を否定したいわけでは無い。なんなら褒めたい。心ではそう思ってるのに脳では自分が悪いって責めちゃう。その考えを他人にも押し付けて、他人を否定して、また傷ついて、また押付けて。
昔の行動が今の自分に帰ってきてるわけだから、親に植え付けられたとかそういうのじゃなくて結局全部自分のせいなんだよ。子供の頃の行動も全部自分のせいだし、今の行動も全部自分の責任。そう考えて行動したいよ。そうやって行動して周りの人をみんな幸せにできる人になりたいよ。ほんとはね。
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病んだ人の相談に乗れてる人ってすごいよ。
例え全部の発言が偽善だったとしても、俺だったら悩みを聞いてるだけで涙が出たり病みそうになっちゃうもん。そうなると相談した人はもっと苦しくなるし。
例え偽善でも悩みを聞いてあげるだけで心が軽くなるんだなと、初めて悩む人の立場になってわかったよ。
俺の悩みはみんなの悩みよりちっぽけでしょーもないことだけどそんな悩みでも聞いてくれる人がいるだけで俺は嬉しい。環境が悪いわけでも自制心が無いわけでもないのに、自分の行動に責任を持てなくて、だけど心の底では自分を苦しめてて、
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GRAVITY7
あ

あーーもうやだよ
周りの気分に流されて、自分の意見とか考えを言うことも出来ない。空気の読めない人が身近にいるせいなのか知らないけど、怖くなるんだよな。こうやって人のせいにするのもあれだけど

人のせいにしてるのはじぶんだし、自分のせいにしてるのも自分なんだから自分の言動全ての責任は俺にあるんだよ。人に何か言われるのも自分の言動のせいだし。そういうことを考えて行動しなきゃ行けないのに体が勝手に動くんだよな。結局それも自分のせいなんだけどね。

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あ

自分より恵まれていない人達がいると分かっているのに自分より才能のない・慣れていないを人をみるとバカにしたくなっちゃうんだよな。しかも先天性のものでも。バカにされる事の苦しさはよく味わっててよく知ってるはずなのにね。負の連鎖ってこの事なのかな
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あ

結局、人の気持ちを考えられる頭のいい人がいちばん病みやすい気がするな。頭がいいからなにか重大な役割を任されたりして苦しいだけなのに断ると傷つけてしまうかもしれないって言う恐怖心があるから無理に断れずにやるしか無いし、やったところで自己分析とか反省会みたいなのをして自分を責めるだけ。
人の気持ち考えられない俺が言うことじゃないと思うけど、この文章をここまで読んでくれた人が1人でも幸せな明日を送れますように。そして、その一日の中で「人のあい」を感ることができますように。
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あ

誰かの生きがいになりたい
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GRAVITY2
あ

うああああ
さっきまで楽しい雰囲気だったのに
頭が痛い
心がいたい
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あ

うーんw
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GRAVITY12
あ

GRAVITY
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あ

ほんとうに、ありがとう
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あ

定期
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あ

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GRAVITY8
あ

よくやった俺!!!!少し叫んだり泣いたりしたけど3つのデケェストレスを対処出来たのは初めてや!!ーーー!!!
あと自分の機嫌を人に当てる人嫌い。あと関係ないのに話に入ってくる奴も。
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あ

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GRAVITY24
あ

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あ

銭湯とかは行った方がいい。45℃くらいのお湯にちょっと浸かるだけでもストレスが体から抜けてく。
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GRAVITY4
あ

よくやった俺!!!あんなイライラして抑えれたのは今日が初や!!!!よくやった!!!!!
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