
J.
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J.
これは大学不要論ではない。
また、特定の大学や立場を否定する意図もない。
むしろ、大学という場が本来持ってきた
知的形成や文化的余白の価値を守るために、
教育と仕事の接続の仕方を考え直せないか
という思考のメモである。
大学という「形」が先行してしまった現状
少子化が進む一方で、日本には多くの大学が存在している。
中でも議論の矛先が向きやすいのが私立大学だが、
問題は設置主体ではなく、役割の曖昧さにあるように思う。
研究大学としての機能を担う大学。
職業教育や実務準備を主とする教育機関。
それらが十分に整理されないまま、
「4年制大学」という形式だけが広く維持されてきた結果、
教育・研究・就職準備のすべてが中途半端になってしまった場所も少なくない。
大学を減らすか守るか、という二択ではなく、
大学が担うべき役割を正直に分け直す必要があるのではないだろうか。
○一つの案:学びと仕事を分断しない制度
そこで考えたのが、次のような仕組みだ。
2年間の短期大学
→ 2年間の企業研究 × 雇用(正規・研修扱い)
→ その後、正規雇用へ移行する。
企業での2年間は単なる労働ではなく、
教育の延長として位置づけられた「研究・研修期間」とする。
その代わり、この期間には通常より合計60日多い休暇を制度として付与する。
○早く働かせるためではない
この仕組みの目的は、若者を早く労働市場に押し出すことではない。
大学4年間がこれまで担ってきた
・思考の基礎をつくる時間
・社会との距離を保つ余白
・文化や教養に触れる時間
それらを「在学年数」で確保する発想そのものを、
時間配分という別の形で組み替える試みだ。
学ぶ時間。
働きながら育つ時間。
立ち止まれる時間。
それらを分断せず、一本の制度として接続することで、
生産年齢人口の確保と、文化的貧困の回避を同時に目指せるのではないか。
○私立大学をめぐる議論について
この話をすると、私立大学への批判と受け取られやすい。
しかし本質は、私立か国立かではない。
研究を担う大学は、研究に集中できる環境を。
職業教育を担う教育機関は、企業と責任を分かち合う仕組みを。
それぞれが無理のない役割を引き受けることで、
結果として大学という制度そのものの信頼も回復するはずだ。
○終わりに
この案が唯一の正解だとは思っていない。
現実的な課題も多いし、制度設計には慎重さが必要だろう。
それでも、
「大学を減らす/守る」
「若者に我慢させる/甘やかす」
といった単純な対立ではなく、
教育と雇用、そして人生の時間配分をどう再設計するか
という視点から議論が始まってもいいのではないかと思っている。
これは、そのための一つの試案である。

J.
社会の枠組みから逸脱したことはありますか。
僕はそうしてしまいそうだと思ったことはある。
コロナをきっかけに、
過密と効率を疑った。
効率。
生産性。
役割分担。
結晶のように澄んだ論理。
それらは
人間性の一部にすぎない。
不要なものを探すのも、僕だ。
たとえば、
〇〇大生。
高校生。
中学生。
小学生。
呼びやすく整えられた枠組み。
僕は、それに成りきっていた。
高校生らしく。
中学生らしく。
つい最近まで、
らしさは、やがて未来の形になると信じていた。
しかし、歩みが駆け足な時代に
未来は再現できるふりをして、
確かな顔をしているのは過去だけだ。
僕は過去の何者にもならない。
もし、創られた存在だとするなら、リスクを承知で吸うタバコがある。
そして、僕は僕になる。

J.
受験開始の合図が鳴る直前、担任は突然、胸を張った。
まるで、この瞬間のために人生を費やしてきたかのような顔で。
「デカルトが『我思う、ゆえに我あり』と言ったのは有名ですね。
彼が示したのは、“人は思考という行為を通して、初めて主体として立ち上がる”ということです。
そして受験において主体であるとは、与えられた問題に受動的に反応するのではなく、
自分の頭で筋道を立てて考え続けることを意味します。
つまり、あなたたちが“考える存在として立ち続けること”こそが、試験での最大の武器になるのです。」
担任は、一呼吸置き、声を少し落とした。
「カントも“意志なき理性は無力である”と述べています。
これは、ただ理解しているだけでは主体として成立しない、
“理解を行為に変える意志”がなければ思考は実らないという指摘です。
受験もまったく同じで、知識を持っているだけでは点にはならない。
知を答案として形にする意志があって初めて、理性は働きます。
いま試験開始を待つこの時間こそ、理性に意志が宿る最も重要な瞬間なのです。」
語調は穏やかだ。
だが、生徒一人ひとりに“内側から火をつけよう”とするような、
湿度の低い熱がそこにあった。
担任はなおも、デカルトを、カントを、
まるで古い友人の名を呼ぶように次々と引用していく。
そのときだった。
語気がわずかに強まるにつれて、荒くなった鼻息が、
一本の冗長な鼻毛を、誇らしげに揺らした。
その揺れは、言葉より雄弁だった。
揺れる鼻毛は、こう告げる。
「お前はただの人間だ。」
あの瞬間以来、不思議と肩の力が抜けて、
等身大の自分で描くべき目標というものが、
ようやく見えた気がしている。

J.
世界を「読む」という行為は、単なる視認ではなく、観察・解釈・理解・吸収という連続的なプロセスによって成り立つ。
そして「再可」とは、その意味が一度固定化されながらも、経験や気づきによって再び流動化し、また新たに読み直されるという往復運動を指す。
本来は単なるアルファベットにすぎない“A”という文字を例にしてみる。
まず私は“A”という存在を観察し、その形を「△+ハ」と解釈する。
次に、象形的には“三角形の空間を二本の脚が支える構造”として理解し、
最後に、Aを“空間をもつ概念を示す図”として自分の中へ吸収する。
こうして“A”は、社会的に共有された意味とは別に、
私個人にとっては“再可読な世界”の一部として存在する。
それは他者にとって再現性を持たないとしても、
私にとっては何度でも読み直され、意味を更新し続ける固有の対象となるのだ。

J.
(The Constitution of UNESCO)
ユネスコ憲章の前文を思い起こす。しかし、「心の中に平和を築く」ということは、実際には極めて難しい課題である。
パスカルは言った。
人間の不幸はすべて、たった一つのことから来る。それは、自分の部屋で静かにしていられないことだ。
人間は、生まれながらにして不安定で移ろいやすく、ときに残酷になりうる存在である。それでも安定を得る方法はある。それは外部の環境によって自らを規定することだ。
古来より人は、建築によって中心性を持つ囲いを設け、規律と秩序によって混沌に対抗し、安定的な空間を確保してきた。
江戸時代の平和もまた、その外的環境に支えられていたのかもしれない。江戸幕府を中心とした幕藩体制は、全国を統治しながら各藩に自治を許し、参勤交代や武家諸法度といった制度によって武力衝突を防いだ。この仕組みは、人々の暮らしに安定をもたらし、約400年にわたる国内の平和を維持した。
だからこそ、私たちが「心の中の平和の守り」を築こうとするとき、内面だけに頼らず、外部からの規律や環境という枠組みを整えることが不可欠なのである。

J.
つまり、自分の内面を完全に見つめることはできず、自分自身の思考や感情さえも、曖昧でつかみきれないことがある。
かといって、自分を「客観的」に見ること――まるで他人のように外側から正確に分析すること――もまた難しい。
なぜなら、客観とは言っても、どんな視点にも何らかの偏りや限界がつきまとうからだ。
他人に対しても同じことが言える。
私たちは、他人の言動や表情などから、その人のことを理解しているつもりになるが、それは多くの場合、ほんの一部にすぎず、断片的で表面的だ。
かつて流行した「メンタリスト」のように、しぐさや態度から人の心を読み取ろうとする技術もあるが、それによって人間の本質にまでたどり着くことは、おそらく不可能だろう。
Action is the only activity
that goes on directly between men without the intermediary of things or matter.
The Human Condition, p.7
With word and deed
we insert ourselves into the human world
, and this insertion is like a second birth.
The Human Condition, p.176
Who somebody is or was
we can know only by knowing the story of which he is the hero.
The Human Condition, p.186

J.
conditionはon the condition that 直訳で、そのという状態で、和訳すると、という前提でのように使うことができる。
ハンナアーレントのタイトルはその意味(前提)
でタイトル付けられているのか。
日本語しか見てなかったから、条件=定義と勘違いしていた。むしろ、ハンナアーレントは前提となる状態やあり方、それを取り巻く設定という意味では環境を意味していた。

J.

J.
ですが、僕は結婚をするような関係になったとしても好きな人と僕は別者なのではないでしょうか。お互いに育った環境も教わった振る舞い方も礼儀も少しづつ違います。同じ世界を見ていても見え方が違います。同じ色を見ていても違う色に見えてしまうのです。どこまでも触れている世界は平行線で彦星と織姫なわけです。
どなたかは存じませんが、おそらく質問者はお互いにわからない同士、好きな人に理解する努力をして欲しいということを思ってらっしゃるのではないですか?
