
兵六堂
佛に逢うては佛を殺せ
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兵六堂

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AI 「乖離出てますよ」

兵六堂
行動選択可能性のゲシュタルト構築が崩れ、
別の結合様式に依存した行動選択可能性のゲシュタルトが立ち上がる

兵六堂
特異な個体をいちいち考慮してルールなど初めから作れるはずがないのに、でかい顔してごちゃごちゃ騒ぎやがるからそれらを黙らせるにはそれしか無いのだ。
ただし内面の自由には抵触しない程度にである。
特異な個体が、見えないところで人に迷惑をかけない範囲でコソコソやってる分には全く構わないわけだ。
まぁ現行のルールでは、それさえ裁きの対象となるのだから、ルール側が初めから歪んでいるとはいえるのだがな。
余談はさておき、ルールを作ったのであれば、きちんと罰を執行しなくてはならない。
それを行えないのであれば、そんなものは破綻している。
信仰だの、民族性だの、国民性だの、右だの左だの偉いだの偉くないだの無関係に執行されなければそれは破綻である。
そこはマシーンの様に白黒つけなくてはならない。
人情も要らなければ、敵意も要らないなぜならそれは後からやってきたもので、要はそれらは余計だからだ。
どうしても、情状酌量とか言いたい人のために釘を刺しておくが、その様な特殊な状況でルール違反が起こるのは社会システムのためだ。
個人に対して多めに見て欲しいなどというのはズレたヒューマニズムに過ぎない。
大元を叩かないのであれば、永遠に例外的な譲歩を要求され続けることになる。
そんなものはただのルールの欠陥である。
差別とは自治を守るための人類の知恵なのだ。
それが嫌なら、密かに人に迷惑をかけずに行うか、別のルールの共同体に移動するかしかない。
そういった選択肢が与えられているにも関わらず、それを拒む特異個体は粛清するしかないのだ。
差別とはそれだけの話だ。

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布団の仕舞いかた?何らかの罠、呪術?
車の角度?、クラクション、泥濘

兵六堂
目の前の相手が寝ている時や、またその時に見ている夢のことなどについて考慮する事などない。
洗濯のやり方や歯の磨き方も知らないのだ。
自分が一人でやっている事を自ら観察すべきだ。
如何に自分が何も知らないかを自覚することができる。

兵六堂

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そもそも料理と呼ぶことも烏滸がましい。
こっちでわざわざ焼かなきゃ食えない状態で出すのもおかしいし、肉切っただけで料理ヅラしているのもおかしい。
刺身もかなり際どいラインだが、調理不要でそのまま食べることができ、きちんとした盛り付けがある。
今ここに、焼肉を韓国料理と呼ぶ事を禁ずる!
韓国にはキムチしかない!

兵六堂
結論なんてものはAIで先に出せてしまうので、レスバなんてものは、プロンプトも作れない老人やキッズのする事であって、例外があるとすればそう言う見せ物、工作という事になってしまう。
当然研究発表や会議もショーでしかなくなってしまったわけだ。

兵六堂
それがわたしです

兵六堂
言い換えると、3Dに見える他者の身体は
4Dの全体(場)における“別の向きの切断面”。

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= 動的で移動可能な主体**

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しばらくすると人さえもだんだんと薄くなり、消えてなくなってしまうようになった。

兵六堂

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長かったです。

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弟子の僕はマキャベリストと呼ばれ

兵六堂
ちゃんとやってねぇだけでなく、両方の良いとこどりをしようとするから卑怯だし失せろと思うだけで

兵六堂
昨日は、世の中に影響を与えすぎると言う理由でクラスメイトを暗殺する夢。
突然疑問を持ってた。

兵六堂
神様だよ。

兵六堂

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そのために戦争を行うべきであるし、独裁もすべきなのだ。

兵六堂

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精々、視野空間内で自らの手と湯呑みが接触したのを目撃することが出来る程度だ。
視野空間は触覚感覚とは全く異なった空間なのである。
実際触覚空間内で、遠くのものが縮み、近くのものが膨張することなどはないし、逆に視野空間内で風を身体で感じることもない。
以前知覚正面が人間には見えていないと言ったのは、両者の差異が分からずに、アプリオリな形式として触覚空間を設定し、その延長に視野空間があるという世界イメージを作ってしまっているということを指摘していたのである。
視野空間の本質が分からない人間の世界イメージは、カンブリア爆発以前の生物と大差がない。
要は、触覚空間は眼球を持たない生物の還世界の領域であり、それは物質だけの世界である(正に現代人である)。
その世界では、世界に自分以外に何かがいるという事も分からず、ただ空間と一体となって、また空間的に漂いながら、たまたま口に栄養価の高い何かが流れ込んできた時に、幸せな気持ちになるとかそう言ったものである(断っておくが、こういった原生生物が卑しいとか下等であるということをいいたいのではない)。
人間はその領域を少し進めて、物体としての他人があり、また自ら進んで食べにいけるというだけである(まぁ、実際はあらかじめ環境的に用意されたものを受動的に消費するに過ぎないのである。見えるのにまるで見えないかのように、能動性を持つことができずにいる)。
じゃあ、自分で狩に出かければ良いかといえば、それは少しはマシであるが、より高次にある本能、食欲や死の恐怖に追い立てられた結果の域を脱してはいない。
それでは問題解決の方法が分からないとなるのであるが、そこで視野空間をもっと吟味してみようという提案をしたいのである。
視野空間については、既に現象学や東洋哲学によって探究をされているし、マッハやマグリット、熊楠も取り扱ってきたものである。
結局また大森哲学の話になり、知覚正面は心であるという話であるが、そのように整理するととてもスッキリする。
つまり、触れるものは物質で、見えるものは心であるということである(補足すると、物理数学のような見ることも触ることもできない領域のものは、物質領域の延長にあるものの、よりふくよかな空間であると考えるべきである。言語空間についてはここでは語らない)。
しかしそうすると、見えという心が、手で持った途端に物になるという奇妙な話になるが、実際にそうなっているのだから仕方がない(実際は視覚と触覚が同時に働いているので、そのようにはならない。ただし、人間の世界イメージのために触れるものは物質に変化してしまう)。
結局その両者の反復は同じものの別の姿なのであるが、人間の還世界に於いては、それらの反復が正常に機能せず、偏ったゲシュタルトとして知覚されてしまうのである。
要は、物と心の分離に問題があるという話であるが、その認識を阻害する要因として、視野空間と触覚空間の区別が出来ないことと、それを感じている立場を発見できないことによっている。
これはカルデジアン劇場ではない。
カルデジアン劇場は、永遠に後退することを余儀なくされるが、物と心が一体化した、初めから分離せぬ形式で存在しているのであれば、そこには、ふくよかで抽象的な文脈が付属するだけである。
心が物側にあるのであれば、主体を物側に反転すれば良い。
そうすれば、対象としての物は消え、私としての物とも心とも言えるようなモノが立ち現れるのである。
このことは、日本語に主語が無いという事実とも深い因縁があるのである。

兵六堂
見えているのは霊的世界の方である

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子供は助けて欲しかった。
卵も被害者も潰れてしまった。
描写もしたくないエレベーターでの出来事。

兵六堂
この様に主張するのは、なにも大森荘蔵だけに留まらない。
例えば、エルンスト・マッハやダグラス・ハーディング、ジョルジュ・バタイユである。


兵六堂
要は、全てが脳内の電気発火によって起こっているというお話になっているのである。
例えば、人間の体には見える部分と見えない部分とがある。
それは、胸より下と顔面のことであるし、内骨格と外骨格のことでもある。
決して見ることのできない顔面を、物質的なリアリティによって穴埋めすることで、知覚正面は居場所を失う。
それは全てを脳内イメージで覆うという作業だ。
冷静に考えれば、人間に顔面など初めから無く、聖書で書かれている様に、他者の姿を模して自らにコピーしたに過ぎないのだ。
実際に、出来事とは知覚正面で起こっており、脳内の電気発火というものはその反映としての物語りと考えざるを得ない。
洞窟の比喩はその通りそのまま事実だったのである。
では、肩の上には何が乗っかっているのかといえば、純粋な知覚そのものの現実として考えれば、世界そのものであるとしか言いようがない。
結局、世界の内の私に私がいるのではなく、私の内に世界が有ったのである。
その内と外との誤解の結果、あらゆるものが反転してしまったのである。
人間は現実を生きてなどおらず、鏡の中で生きていたのだ。
大森荘蔵は、知覚正面を心であると主張している。
人間が見えないと主張してきた心は、目の前にそのままの姿であるというのである。
よくよく考えれば、見ている物などに、自分の心が畳み込まれていることが分かる。
何のことはない、物は自分だったし、君も私だったということなのだ。
これがユダヤに伝わる、旅人の民話の言わんとすることなのである。



兵六堂

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それが、事実なのかプロパガンダなのかとか関係無く、それが自分らと何の関係があるのかというだけの話だ。
自分とは無関係の出来事に責任など負えるわけもない。
