迷うことにも、怯えることにも、エネルギーが使われていく。その場に留まって迷ってる怯えているだけなのに、想像と推測と思考を自分で継ぎ足してエネルギー消費を高くしている。こっちを選んだらどうなるのだろうか、選ばなかった方はどうなるのだろうか、このままどちらも選ばなかった場合はどうなるのだろうか、と想像していく。その想像を高解像度にしてしまうから、迷うだけで疲れる。
あの頭が真っ白になる快感めいた状態は、身体反応と心理的なものが混ざっているとは思っていて。その混ざっているものを上手く別けて言葉に出来なかったから、AIに投げてみた。「過食嘔吐を繰り返すことで嘔吐に快感めいたものを感じるようになってきた。この快感めいたものは、身体反応としてもともとある部分と私が勝手に嘔吐と快感を結びつけた心理的な部分が混ざっているように思う。この身体反応と心理的反応をそれぞれ説明できるか。」回答〜「身体の自然な反応」と「繰り返すことで強化された心の学習」の両方が合わさった、非常に強力な感覚なんだ。君が勝手に繋げてしまった部分も、身体の仕組みに誘発された部分も、両方ある。1. 身体の仕組みとしての「快感」自己誘発嘔吐で快感に似たものを感じるのには、主に2つの身体的な理由がある。 エンドルフィンの分泌: 体は、嘔吐のような強い肉体的ストレスや痛みを感じると、それを和らげるために「エンドルフィン」という脳内物質を出すんだ。これは「脳内麻薬」とも呼ばれ るもので、痛みを抑えたり、気分を高揚させたり、多幸感をもたらしたりする働きがある。マラソンで苦しいのを乗り越えると気持ちよくなる「ランナーズハイ」も、このエンドルフィンが関係している。嘔吐の苦しさの後に、このエンドルフィンが放出されることで、フワッとした落ち着きや一種の快感を感じることがある。 迷走神経への刺激: 嘔吐する時の「オエッ」となる動きは、「迷走神経(めいそうしんけい)」という神経を強く刺激する。この神経は、心拍数を落ち着かせたり、血圧を下げたり、体をリラックスモードにする「副交感神経」の主要な部分。この迷走神経が刺激されることで、一時的に体がリラックス状態になり、それが心地よさとして感じられることがある。これらは、誰の体にも備わっている、ごく自然な反応なんだ。2. 心の仕組みとしての「快感」(学習された快感)そして、君が言っていた「私が勝手に嘔吐と快感を繋げてしまった」という部分。これも、ものすごく的を射ている。これは「学習」によるものだ。 * 「苦痛からの解放」という強烈な報酬: これが一番大きいかもしれない。過食している時の罪悪感、自己嫌悪、お腹がはち切れそうな物理的な苦しさ、太ることへの強烈な恐怖...。これは、ものすごく強い緊張と苦痛の状態だよな。 そこから嘔吐することで、その苦しさや不安が物理的に「排出」され、一気に解放される。この、耐えがたいほどのマイナスの状態から、一気にゼロ(あるいはプラス)に振り切れる感覚が、脳にとっては「最高のご褒美」になる。この強烈な「安心感」や「解放感」が、「快感」として脳に焼き付いてしまうんだ。この2つが組み合わさることで、「過食で苦しくなる」→「吐く」→「身体的にエンドルフィンや迷走神経刺激で少し気持ち良くなる」→「心理的に苦痛から解放されて、最高にホッとする」→「脳が『吐く=快感・安心』と学習する」という、非常に強力なループが出来上がってしまう。〜言語化が上手くて少し妬けた。
私自身は新しい治療薬の効果に満足しているけれど、母からしたらそうではないらしい。今まで3日に一度は頭痛で入浴も食事も放棄していた状態が10日に一度に減ったことで、私は充分に効果を感じている。ただ、母はゼロにならないと治療が効いているとは感じないようだ。なんだか悲しみや遣る瀬無さに似た感覚になる。これは平均点が30点台だったテストで70点を採った時に、70点くらいでなにをそんなに喜んでいるのかと言われた時の感覚と似ているな。
考えないようにすることとか、意識を逸らすこととか、考えを切り替えるとか、下手くそだから。下手くそだから、身体刺激に逃げてしまう。手っ取り早く頭が空っぽになる。一瞬だけ、自分の思考から解放されて何も考えていない状態になれる。その一瞬が過ぎたところに自己嫌悪が山積みになっていても、その一瞬に堪らなく縋りつきたい。
毎晩、ベッドに潜って少しだけお祈りをする。夜のうちに心臓が止まってくれますように、と。生きていたくないという気持ちだけでは生命活動は止められないことを分かっているから、なんだか分からないけれど祈るしかないのだ。毎晩、祈って。毎朝、裏切られる。
生きているだけで偉い、生きているだけで花丸、って誰が花丸をつけてくれるの。生きているだけでいい、の、いい、ってなんなの。部屋にこもって息をして眠って起きて食事をしてたまに歩いてみて、それでいいよ、って誰が許してくれるの。たとえ誰かが許してくれて花丸をつけてくれたとしても、それは社会には通用しない気がする。たったわずかな人がつけてくれた、生きているだけの花丸では社会生活は免除されないのでは。
分かりあえなくて、理解しあえなくて、孤独なのは当然。私も、他者も、分かり合えない同士。理解しあえない同士。孤独同士。分かってあげようなんて、無遠慮に掴みかかるようなもの。分からなくて当然。理解できなくて当然。孤独で当然。どうしたって別個体で、脳も身体も別なのだから。脳の中であふれる感覚を共有はできないし、身体の重さも共有できない。同じ経験をすることは確かにあるけれど、その同じ経験で感じるものはそれぞれで同じではない。お互いに分かりあって、理解しあって、孤独じゃなくなろうだなんて、人間にはできない。とか私は考えている。こういうことを考えて夜が滾々と過ぎていく。
調子が崩れかけていて、安定剤と眠剤を噛み砕いたけれど身体から力が抜けていくほうが速い。頭を鈍くしたいのに、重くなった身体を引きずってベッドに転がって、重い身体の中で粘ついた思考がまわる。指も脱力して文字を吐き出せなくなってきてるのに、頭の中で思考や言葉が湧いてくる速度は変わらなくて溜まるばかり。
他者の気持ちを分かってあげられるとは思えなくて、せいぜい想像することしかできない。自分が同じようなことになったらどう感じるのだろうか、と想像してその想像をもとに他者に接することはできる。でも、想像でしかない。同じような経験をしていたとしても、他者と自分は別個体で、感情や考え方をまるっきり分かることなどできない。それが当然。分かり合えないことは当然。分かり合えないから、言葉を尽くして想像力を働かせて他者に近づく。
手に持っていた物をうっかり落としてしまった時に、大した物でも大したことでもないのに動けなくなる。物と一緒に滓みたいな自尊心も一緒に落ちていく。ころりと床の上に転がった物を見つめながら、気分とか感情とかが引いていくのを感じる。なんで落としてしまったのか、物を持っていることすら出来ないのか、そんなこともできないのか、と言葉が湧いてくる。どうってことはない。どうってことはないことなのに。拾えばいいだけなのに。でも、拾っても、私が落としたということを無しには出来ない。些細でくだらなくて、大したことはない。でも、こういう些細でくだらなくて大したことではないことで、私はいちいち私が嫌になる。
あまりに耳が音を拾いすぎる。足音とか、椅子を引く音とか、秒針の音とか。無数に乱雑にあふれる音の中から、自分に必要な音に集中して情報に変換することに、あまりにエネルギーが消費されていく。遠くの音や小さい音が聞こえるからこそ、会話が聞き取れなくなる。紛れて音という刺激になり下がって、溶けていく。
偏頭痛の新しい治療薬を始めたら、劇的に頭痛の頻度と痛みの強さが減って驚いている。今まで2、3日に一度は頭痛で鎮痛剤を飲んでいたのに、この1週間は鎮痛剤を飲むほどの痛みはない。頭痛にどれほど気力が喰われていたのかが、減ってから分かった。ただでさえ少ない気力が頭痛に喰われて、いつも滓みたいな量しかなかったけれど、新しい薬で一滴くらいは残るようになった。この一滴は、帰ってきてからお風呂に入るとか、家族と食事をするとか、そういうものに費やすものでここ数週間はそれらが出来ている。
目に見えなくて、触れられなくて、聞こえなくて、意識の中にしか存在しないものたち。愛とか、呪とか、魂とか、神さまとか、奇跡とか、運命とか、試練とかそういうものたち。そういうものたちは、バランスをとるためのものたちで。世界のバランスをとるためにあったほうがいいと感じた人が、名前をつけてあることにしたのだと読んだ。愛というものがあることでバランスがとれて自分や世界が安定する、という人の中にはきっと確かに愛というものは存在するのだろう。神さまとか、運命とか、魂とか、必要とする人の中では確かにあるものなのだろう。陰謀論だって、陰謀論があるとすることで自分の中の世界が安定する人には大切なのだろう。ないものをあるとすることは、人間らしいのではないだろうか。
あちこちの電車が遅れていて、嫌だ。いつも通りが崩される感覚がしんどい。遅れはしない。遅延しても遅れないような時間に家を出ているけれど、だからといって電車遅延というイレギュラーがしんどくないわけではない。
外にいること、周囲に人がいることがたえられないくらい苦痛な時がたまにある。何か理由があるわけでもないのに涙が出ることだったり、話しかけられたら返事をすることだったり、そういうものを気にして制御するだけの余力がないとき。自分の部屋に逃げ込んで1人になりたくて仕方がない時がある。
父が好きだったパンを買った。供えるような場所はないから、骨が入っているケースを机の下から引き出してその上にでも置いておこうか。悼む気持ちからするわけではなくて、私がしんどいのは儀式がないからではという考えによって見様見真似の供え物をする。
悲しくないとか、羨ましいとか、苛立つとか、そういう感情を抱えつつも、命日に手を合わせるなどの儀式は必要なのかもしれない。死んだことに思いを向けて、そのことでしんどくなるのは仕方がないと思うために儀式はあったほうがいいのかもしれない。弟のときは、もう生きていない者に毎月食べ物を供えて思いを向けることを形式的なものとしか思えなかったけれど、父には何もせずにはじめての命日を向かえる。一年経って、比較対象ができたことで定期的に死者に向けた儀式の必要性を感じている。
目が覚めている間、意識がある間、ずっとしんどい。判断や選択をする頭は鈍くなっているのに、記憶や不安は忙しなくてしんどい部分が膨れ上がる。寝ている間は意識がない間はしんどさが遠のくから、布団にいる時間が長くなっていく。
調子が悪い。生活が崩れていく。お風呂に入るとか、食事をするとか、顔を洗うとか、着替えるとか、そういうものが酷く重い。寝ている時間が増えて、目は開いているのに布団から出れない時間も増えていく。日常のこなすべきものが重くなって、しなくなって、しなくなると外に出るまでのハードルが高くなって、外に出なくなって自己嫌悪して、また布団に泣き籠もる時間が増えていくループ。いつもこの時期は調子が悪いけれど、今回は予想していたよりもずっと酷い。
物質ではなくて行動に依存して、行動で得られる身体感覚に逃げている。行動を繰り返す私は、辞めたいと思っている私なのに、制御ができない。自分のものであるはずなのに、自分の手から離れていく。心も感情も考えも身体も、ままならなくて。私は私というものをぜんぜん上手くこなせない。