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#花彩命の庭 #初投稿 #タスク

花彩命の庭 ― 霧咲く檻

霧は音もなく降りていた。
庭の地面に触れるたび、白く膨らみ、形のない影だけを残して消えていく。
夜ではない。昼でもない。
ただ光だけが曖昧に満ちている世界。そこが“花彩命の庭”だった。

灯（あかり）は、霧の中を歩いていた。
足元には色彩が溶けたような花弁が散り、踏むたびに淡い音を立てて割れる。

その音の先──
ひとりの少女が座り込んでいた。

背を向けている。
肩が震えている。
その周囲の花だけが、すべて色を失っていた。

灯は慎重に距離を詰め、静かに声をかけた。

「ここは、初めて？」

少女は振り向かなかった。ただ、震えがひとつ強まった。

「……ここは、どこなの」

掠れた声だった。
言葉より先に、怯えた息が霧へ溶けていく。

灯は少女の真横まで歩き、しゃがみ込んだ。

「名前は？」

少女はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように呟いた。

「……由衣（ゆい）。
　気づいたら、ここにいたの。
　何も……思い出せないのに、怖いことだけははっきりしてる。
　逃げなくちゃいけない気がするのに……逃げる先が分からないの」

言葉は震えていたが、心だけは必死に何かを掴もうとしていた。

灯は理解する。
彼女は“迷い”ではなく、“封じた記憶”に引き寄せられてここへ来たのだ。

「由衣。
　あなたの記憶は、この庭が預かってる。
　奪ったんじゃない。あなた自身が置いていったの」

少女は灯を見た。
恐怖の色の奥に、かすかな期待が揺れている。

「……返してもらえるの？」

「返すかどうか、決めるのはあなた」

灯が手をかざすと、霧の一部が裂け、一本の道が姿を現した。
その道の先には、黒い蕾がひとつだけ浮かんでいる。

由衣はその蕾を見つめ、眉を寄せた。

「……あれに、触れたら？」

灯は答えない。
代わりに、蕾の周りの霧を指で払う。

白い霧の奥から、影のような“何か”がゆらりと姿を見せた。

由衣の表情が強張る。

「……なに、あれ……」

灯は淡く微笑む。

「あなたが置いていった“記憶”の形。
　取り戻せば、あなたは自分に戻れる。
　でも──」

影がゆっくりと由衣の方へ伸びる。
細い腕のような形になり、呼び寄せるように揺れた。

「その記憶は、あなたが自分を守るために封じたもの。
　触れれば、過去の痛みごとすべて戻る。
　それでも、行く？」

由衣は震える手を握りしめた。
灯はその横顔を静かに見守る。

少女は一歩踏み出した。
二歩目は、かすかな覚悟を滲ませていた。

影が少女の足元に触れた瞬間、世界の音が消えた。
景色が歪み、霧が裂け、黒い蕾が花開いた。

──白い病室
──泣き叫ぶ声
──名前を呼んで伸ばした手
──届かなかった声

由衣は両膝をつき、喉の奥で嗚咽が漏れた。

「いや……いやだ……！」

灯は彼女の背へ手を添え、強くは触れず、ただ一緒にそこへ立った。

「大丈夫。
　あなたはもうあの時のあなたじゃない。
　記憶はあなたを壊すためにあるんじゃない。
　もう一度、生きるためにあるの」

由衣は涙で顔を濡らしながら振り返った。

「……私、そんなの……背負えるの……？」

「できるわ。
　あなたは逃げなかった。
　だから、ここまで来られた」

少女は震えながらも立ち上がり、灯の手を握った。
その瞬間、黒い記憶の花は静かに光へ変わり、霧に溶けて消えていった。

庭に色が戻る。

花はゆっくりと咲き、淡いひかりが少女の頬を照らす。

由衣は涙を拭き、掠れた声で言った。

「……帰りたい。
　ちゃんと、あの場所へ。
　逃げずに、私のまま……戻りたい」

灯はうなずく。

「行けるわ。
　あなたはもう、自分の影に飲まれない。
　自分の記憶を抱きしめて歩ける」

庭の境界に光の道が開く。

由衣は深く息を吸い、光の方へ歩き出した。

振り返りもせず。
震えも、もうなかった。

灯はその背中を静かに見送り、胸の奥で小さく呟く。

──記憶は檻じゃない。
　檻にしていたのは、いつも“自分”だ。

霧がまた庭を満たし始める。

次の誰かを運ぶために。

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