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無課金ユーザー恵みの星

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📚ルール必読📚 配り手/貰い手に関わらず、惑星参加者は必ず確認☺︎  ・白数字→この惑星の使い方  ・黒数字→禁止事項(悪質な場合追放) 🦄配り手ルール🫳 【無償配布のみ】 ①配布期間、対象人数を明確にしましょう  アイテムスクショを貼る場合は無くても○ ②不特定多数アイテムのバラマキOK  ランダム配布、アイテム指定不可などの希望があれば明示しても良いです ③簡単な配布条件を付けるのはOK  例)先着5名  例)面白いダジャレを言った人 ④配布後、リプに終了している旨を固定  もうこの募集は終わったよって合図です ⑤失礼な人には怒ったりせず、無言で静かにブロックしましょう。スパムでの通報を推奨 ❶星粒交換の禁止 ❷アイテム同士での交換の禁止 ❸実際に配布するつもりがない釣り投稿 上記、悪質な場合は追放とします 特に考えられるのは「他のアイテムと交換してくれる方を優先します」のような内容ですが、見つけ次第削除になります…📮 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 🦋貰い手ルール🫴 ①欲しいアイテムを見つけてリプライする  いいねだけでは集計対象に入れません ②運が良ければ貰えるかも ③配布期間に注意…!!  配布終了している投稿への反応は控えて🚫 ④そのアイコン、異性じゃない?  異性のサブ垢に送って欲しい場合は、送付希望先のアカウントでコメントしましょう。 ⑤DM設定が「すべてのユーザーに許可」されていないとシステム上、送付できません ❶せがまない、黙って待つ、配り手にDMしない ❷敬語を使うこと、急かしなどの無礼は禁止 ❸何を受け取っても文句はNG (貰ったアイコンの顔が気に入らない等) ❸〇〇が欲しい。などクレクレ投稿の禁止 ❹目につく投稿に片っ端からコメントしてるな、荒らしかな?と惑星主が判断した場合 上記、悪質な場合は追放とします 追放処分は全て惑星主の独断で行います 正直そんな事件がないことを願っています どうか穏便に、平和でありますように🕊️ 以上 2025/07/14 惑星主 飯田チャン🐏

植田真梨恵の星

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シン・スガワラ

シン・スガワラ

おはようGRAVITYおはようGRAVITY
2025年12月1日
みんなおはよう

《今日は何の日?》
南極の日
世界エイズデー
いのちの日
映画の日
瞳の黄金比率の日
着信メロディの日
冬の省エネ総点検の日
カイロの日
手帳の日
防災点検の日
新たなことに挑戦する日
鉄の記念日
東京水道の日
リフトアップケアの日
そうじの達人美来(みらい)の日
データセンターの日
下仁田葱の日
市田柿(いちだがき)の日
カレー南蛮の日
ワッフルの日
パネットーネの日
沖縄産コーヒーの日
明治ヨーグルトR-1の日
えいようかんの日
愛犬と飼い主が絆を深める日
一万円札発行の日
デジタル放送の日
🇵🇹の独立回復記念日
🇷🇴の統一記念日
🇨🇷の軍備全廃の日

《過去の今日の出来事(🚃と🚌関係)》
官設鉄道(かんせつてつどう)の上田(うえだ)〜軽井沢(かるいざわ)間(後の信越本線(しんえつほんせん)で今のしなの鉄道)が延伸開業して直江津(なおえつ)〜軽井沢(かるいざわ)間が鉄道で結ばれる(1898年)
東海道本線(とうかいどうほんせん)を運行する客車に蒸気暖房が導入(1900年)
阪堺電気軌道(はんかいでんききどう)が恵比須町(えびすちょう)〜市ノ町(いちのちょう)を開業(1911年)
鹿児島電気軌道(かごしまでんききどう)(今の鹿児島市電(かごしましでん))の武之橋(たけのはし)〜谷山(たにやま)間6.4kmを開業(1912年)
🇦🇷の首都のブエノスアイレスに地下鉄が開業(1913年)
丹那(たんな)トンネルが開通して東海道本線(とうかいどうほんせん)のルートが変更されて元のルートが御殿場線(ごてんばせん)として分離してこれと同時にダイヤ改正も実施(1934年)
国鉄初の流線形蒸気機関車のC53形43号機が運行開始(1934年)
京阪神急行電鉄(けいはんしんきゅうこうでんてつ)に統合されてた京阪電気鉄道(けいはんでんきてつどう)が分離再独立(1949年)
🇺🇸のアラバマ州モンゴメリーで市営バスの白人優先席に座ってた黒人女性の公民権運動活動家の“リー”ローザ•ルイーズ•マコーリー•パークスさんが逮捕される(1955年)
🇯🇵初のステンレス製電車の東急(とうきゅう)5200系が運行開始(1958年)
井原鉄道(いばらてつどう)が設立(1986年)
JR東日本京葉線(けいようせん)の新木場(しんきば)駅〜南船橋(みなみふなばし)駅間と市川塩浜(いちかわしおはま)駅〜西船橋(にしふなばし)駅間が開業(1988年)
英仏海峡トンネルが貫通(1990年)
湘南新宿ラインが運行開始(2001年)
東北新幹線(とうほくしんかんせん)の盛岡(もりおか)駅〜八戸(はちのへ)駅間が延伸開業してそれに伴って東北本線(とうほくほんせん)の盛岡(もりおか)駅〜目時(めとき)駅間がIGRいわて銀河鉄道(IGRいわてぎんがてつどう)に同じく目時(めとき)駅〜八戸(はちのへ)駅間が青い森鉄道(あおいもりてつどう)に第三セクター化される(2002年)
埼京線(さいきょうせん)の恵比寿(えびす)駅〜大崎(おおさき)駅間が延伸開業して東京臨海高速鉄道(とうきょうりんかいこうそくてつどう)りんかい線の天王洲(てんのうず)アイル駅〜大崎(おおさき)駅間が開業(2002年)
東京国際空港(羽田(はねだ)空港)第2ターミナルが供用開始した事に関連して東京モノレールが羽田空港(はねだくうこう)駅〜羽田空港第(はねだくうこうだい)2ターミナル駅間が開業して羽田空港駅はモノレールのみ羽田空港第(はねだくうこうだい)1ビル駅に改称される(2004年)

《過去の今日の出来事(🚃と🚌の事以外)》
🇺🇸特許庁が認可した炭酸飲料の「ドクターペッパー」が発売開始(1885年)
国際的非政府平和活動団体の「国際平和局(IPB)」が設立(1891年)
🇯🇵で初めて「警察犬」が採用される(1912年)
神奈川県横浜市中区(かながわけんよこはましなかく)の山下(やました)公園前にホテル•ニューグランドが開業(1927年)
ソビエトのリーダーのヨシフ•ヴィッサリオノヴィチ•スターリン第2代最高指導者が暗殺の首謀者のと疑われてたソビエトの革命家で政治家のセルゲイ•ミローノヴィチ•キーロフ氏(本名はセルゲイ•ミローノヴィチ•コーストリコフ)がレニングラード(今のサンクト=ペテルブルク)の共産党本部で射殺されて100万人以上が処刑される「大粛清」の始まりとなる(1934年)
🇯🇵初となる「お年玉年賀はがき」が発売開始(1949年)
🇯🇵初となる国立美術館の「東京国立近代美術館」が開館(1952年)
🇯🇵初となる自動車用有料道路の「参宮(さんぐう)有料道路」が三重県で開通(今は無料開放されてる)(1953年)
🇺🇸とソビエトを含む12カ国が「南極条約」に署名(1955年)
一万円札紙幣が発行される(1959年)
地上デジタル放送がスタート(2000年)

《今日の名言》
今から20年後、あなたはやったことよりも、やらなかったことに失望する
マーク•トウェイン(1835〜1910:🇺🇸の著作家、小説家で本名はサミュエル•ラングホーン•クレメンズ)

《今日の単語》
刷新(さっしん)
意味:事態を改めて、全く新しいものにすること。

《今日の見つけた写真》
東急(とうきゅう)5200系

《今日の一曲》
「南極物語」メインテーマ(Theme from Antarctica)
ヴァンゲリスさん(1983年リリース)

《今月の予定》
1日:お出掛け(シーサイドライン全駅制覇の旅前編)
3日:歯医者
6日:家族とお出掛け(トレッサ横浜へ)
10日:お出掛け(シーサイドライン全駅制覇の旅後編)
17日:お出掛け(南武線(なんぶせん)の個人的超地元区間巡り編)
22日:歯医者
25日:通院

《今日の個人的一言》
今日の一曲は南極の日という事で個人的な南極のイメージの曲をセレクト
自称超貧乏人の俺が🚌と🚃に予算を気にせず乗る方法として1日乗車券を売ってる会社のそれに乗る時は1日乗車券を買うけどそれも元が取れるか計算してからの場合が多い(場合によっては買わない方がいい時もある)
横浜のシーサイドラインの場合は俺が持ってる福祉フリーパスでも1日乗車券と同じ事が出来るから買わない(それで買ったらただの無駄遣いになる)
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南極物語 メイン・テーマ(『南極物語』より)

ジザイ・ミュージック・プレイヤーズ

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🌴たかし⛺

🌴たかし⛺

とりとめのない話し(その60)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その20)

明治維新以降、大阪の堺筋に百貨店(デパート)が軒を連ね、百貨店通りと言われるまでに至った。近江商人を源流とされる近江商人出身の呉服問屋(三越、白木屋、高島屋、松阪屋など)が多いのも印象的である。松阪屋は東海地方のいとう屋が屋号の呉服問屋。屋号については伊勢松阪の松阪屋の屋号の呉服問屋を買収したことに由来。昭和初期以降、商業の中心が御堂筋に移ると交通系の百貨店が数多く建設され、堺筋から移転や閉店を余儀なくされた。
因みに大丸は京都で、そごうは奈良で呉服問屋を創業。百貨店に発展。

1922年(大正11)髙島屋は大阪・堺筋の長堀橋詰に近代ゴシック建築の大型店舗、髙島屋長堀店を開店。これが髙島屋の本格百貨店の始まりとなる。当時の堺筋は、三越、白木屋がすでに大店舗を構えており、長堀店開店の翌年には松坂屋が開店。市電が走る堺筋は、大阪随一のメインストリートとして繁栄し、この時期の大阪は人口・面積で日本最大の都市になり、世界でも有数の大都市「大大阪」と呼ばれた。華やかで活気にあふれた「大大阪時代」の象徴の1つが堺筋に並んだ百貨店建築だった。昭和初年、御堂筋の建設計画が始まると、髙島屋が南海店(現大阪店)を開店を皮切りに在阪百貨店の地図は大きく変化した。

1922-1939 髙島屋長堀店 堺筋は江戸時代、商都・大阪の中心を南北に走る最も重要な街道でした。明治のおわりには道路が拡張され、市電が開通、大阪随一のメインストリートとなった。髙島屋は当時心斎橋筋に店舗を構えていたが、本格的な百貨店経営に向けて店舗の大型化を計画。1922年(大正11)、堺筋の長堀橋詰に長堀店を新築開店。
1923―1966 松坂屋大阪店 髙島屋が長堀店を開店した翌年、松坂屋が同じ堺筋の日本橋に大阪店を開店した。大正期の堺筋には既に三越が高麗橋に、白木屋が備後町に、それぞれ大型店舗を建設していた。大正のおわり、堺筋は百貨店が建ち並ぶ「百貨店通り」と呼ばれるまでに発展。大阪が人口・面積で東京を抜き日本一の都市となり、「大大阪時代」が到来した。

●日本の百貨店(デパート)の誕生
三井グループの祖業である合名会社三井呉服店(現在の三越)が1904年(明治37)前後に顧客や取引先に三井・三越の連名で挨拶状を発送。株式会社三越呉服店を設立し三井呉服店の営業を全て引き継いだことを案内するとともに、今後の方針として「当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、およそ衣服装飾に関する品目は 一棟御用弁相成り候 設備致し、結局 米国に行はるるデパートメント、ストアの一部を実現致すべく候」とし、1905年(明治38)元旦には全国主要新聞に全面広告を掲載した。のちに「デパートメントストア宣言」と呼ばれ、日本における百貨店の始まりとなった。

●三越
三越伊勢丹ホールディングス傘下の三越伊勢丹が運営する呉服店を起源とする日本の老舗百貨店。1673年創業。株式会社三越は、2011年3月31日まで運営していた企業。戦前の三井財閥及び、三井グループの源流企業。
商号の「三越」は三井財閥の創業者である三井家の「三井」と創業時の日本橋の呉服店「越後屋」からで、1904年に「合名会社三井呉服店」から「株式会社三越呉服店」へ改称。三越日本橋本店は日本の百貨店の始まりとされる。1935年に竣工した日本橋本店の本館は、国の重要文化財に指定。

●白木屋
東京都中央区日本橋1丁目に存在した江戸三大呉服店の1つで、かつ日本の百貨店の先駆的存在の1つ。江戸時代創業だったが昭和に入り、東急グループの傘下。1967年(昭和42)東急百貨店と合併し、商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称。その後1999年(平成11)に閉店、336年の歴史に幕を閉じた。跡地にはコレド日本橋が建設され、2004年(平成16)に開業。
日本国内では(法人は別として)商号は消滅したが、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルルのアラモアナセンターでは、かつてのアラモアナ店が「シロキヤ・ホールディング・LLC」として2020年まで営業。初代大村彦太郎可全が、母方の材木商・河崎家の商売を近江国で手伝った後に独立し、1652年京都の寺の内に材木商を開いたのが始まりで、江戸三大呉服店に成長。
1921年(大正10)には心斎橋筋の出張店を閉鎖する代わりに堺筋備後町の角に3075坪の大阪支店を開設して東京と大阪で百貨店を2店舗を展開。

●髙島屋
大阪府大阪市中央区難波に本社を置く、老舗の大手百貨店。難波にある大阪店は同社の登記上の本店。2019年から本社機能の一部を東京都中央区日本橋の髙島屋グループ本社ビルに移転。日経平均株価の構成銘柄の一つ。
1831年京都で飯田新七(現・福井県敦賀市生まれ)が古着・木綿商を開き、義父の飯田儀兵衛の出身地である近江国高島郡南新保村(現・滋賀県高島市今津町南新保)から髙島屋と名付けた。

明治期の半ばから貿易業に参入する。1919年(大正8)には株式会社髙島屋呉服店として、当時の大阪市の目抜き通りであった堺筋の長堀橋に長堀店を構える。大阪市役所によって御堂筋が大阪のメインストリートとして整備されるのに合わせ、1932年(昭和7)には御堂筋の南端に位置する南海ビルディング(南海難波駅の駅ビル)のキーテナントとして、ターミナルデパートの南海店を開店した(のちに長堀店を閉店し、南海店に統合して本店の大阪店に改称)。翌1933年(昭和8)には東京市の日本橋に東京店(現・日本橋店)を開店して、関西資本の百貨店の中ではいち早く第二次世界大戦前に東京進出を果たした。

●松坂屋
J.フロント リテイリンググループの大丸松坂屋百貨店が運営する日本の百貨店。また、株式会社松坂屋は、2010年までこれを運営していた企業。
東海地方を地盤とし、呉服店を起源とする老舗の名門百貨店。名古屋最大の繁華街である栄に本店を置く。本店の名古屋店においては、地域一番店の座を2000年開業のJR名古屋タカシマヤに奪われたものの、とりわけ名古屋市では今なお最有力の百貨店の1つ。イメージフラワーはカトレヤで、キャッチフレーズは「生活と文化を結ぶマツザカヤ」である。三越(現在の三越伊勢丹)や髙島屋などを凌ぎ日本一の売上を誇る百貨店であった時期も存在する。かつては進取の気質に満ち、業界他社に先駆けてエレベーターガール、制服の完全洋装化を採り入れた。に行はるるデパートメント
もともとこの百貨店の屋号は伊藤財閥の創業者・伊藤蘭丸祐道の苗字から採ったいとう屋であった。この伊藤蘭丸祐道の祖先は織田信長の小姓をしていたとされる。「松坂屋」のそもそもの由来は、1707年伊勢松坂(現・松阪市)出身の商人・太田利兵衛が今日の上野店の前身となる呉服店を開業、自分の出身地名から松坂屋と名付けたことによるもので、1767年いとう屋が松坂屋を買収した際、江戸の屋号はそのまま「松坂屋」を使用したが、これは既に江戸市中に松坂屋の名前が知れ渡っていたため、本来の「いとう屋」に変更するよりも得策と判断したからである。1768年江戸進出。上野の「松坂屋」を買収し、同店を「いとう松坂屋」と改称。

1875年、第1大区高麗橋1丁目(現・中央区高麗橋1丁目)の呉服店「恵比須屋」を買収の上、第3大区新町通3丁目(現・西区新町3丁目)に「ゑびす屋いとう呉服店」設置。1909年 「ゑびす屋いとう呉服店」を閉鎖。1923年 南区日本橋筋3丁目(現・浪速区日本橋3丁目)に木造3階建の「松坂屋いとう呉服店大阪店」を開店。1964年大阪府大阪市中央区天満橋京町1-1で「松阪屋」を開店。店舗面積は30750㎡。2004年閉店し、京阪に売却し、京阪シティモールとなる。

●大丸
J.フロント リテイリンググループの大丸松坂屋百貨店が運営する日本の百貨店である。また、株式会社大丸は、2010年までこれを運営していた企業。京都発祥の老舗百貨店で呉服店を起源。大阪(心斎橋・梅田)・京都・神戸・東京・札幌に主力店舗を構えており、心斎橋店が本店にあたる。主力店舗はいずれも高い売上を誇り、この6店舗で単体の91%の売り上げを占める。特に本店の心斎橋店と、神戸店は高級百貨店として近畿地方において高いブランド力を誇る。また大手百貨店では唯一京阪神を網羅している。
1717年下村彦右衛門正啓が現在の京都市伏見区京町北8丁目77に呉服店「大文字屋」を開業し、呉服商を出発点として両替商を兼営していた。1726年に大坂心斎橋筋に進出。1728年に名古屋本町に名古屋店を開き「大丸屋」と称した(のち閉鎖)。幕末には髙島屋に対抗して幕府側についた。
1908年個人商店「大丸呉服店」を株式合資会社に転換。1910年東京信託会社の岩崎一が改革案を作成し、ついで大隈重信の斡旋により、日本生命社長の片岡直温が改革に乗り出す。同年秋には東京・名古屋の両店を閉店する一方で、京都・大阪・神戸店を拡張して再建に乗り出した。下村家も秘蔵の書画骨董を売却して約30万円を調達して資力を増強、1911年別宅会を解散して積立金を割り戻す決定をした。1914年には大阪店が不渡り手形を出して京阪2店が休業するなど、呉服店から百貨店への転換過程では問題が続発したが、幾度もの困難を乗り越え、1928年に大丸と改称して近代化に成功した。
高度成長期は三越(現:三越伊勢丹ホールディングス、同社傘下の三越伊勢丹ほか)と並び「西の横綱」と呼ばれた。しかし、梅田店出店に関する三菱銀行からの借入金など1000億円もの有利子負債を抱え、経営が一時悪化した。1990年頃には梅田店や東京店の黒字転換が実現し、神戸店の周辺開発を進めたものの、バブル崩壊後に再度業績は低迷。奥田務が社長就任後、他の百貨店よりも一足早く1998年より事業構造改革に乗り出し、国内不採算店舗の閉鎖や海外店舗の全面撤退、人員削減に取り組んだ。一方で2003年には札幌店を開店し軌道に乗せている。結果として改革は成功し、収益力を業界首位級に押し上げた。

●そごう
株式会社そごう。かつて百貨店の「そごう」を運営していた日本の企業。ミレニアムリテイリングの完全子会社。2009年8月1日にミレニアムリテイリングおよび同じくミレニアムリテイリング傘下の西武百貨店と合併し、そごう・西武となった。
1830年大坂で古着屋として創業した老舗企業。メインバンクの日本興業銀行(現在のみずほ銀行)出身の水島廣雄のもとで1960年代以降に多店舗展開戦略を推進して大手百貨店グループの一角にのし上がるが、バブル崩壊による経営悪化などにより2000年に経営破綻。その後は西武百貨店の支援の下経営再建を行い、2003年西武百貨店と共に持株会社「ミレニアムリテイニング」の傘下に入る形で経営統合。2009年にミレニアムリテイニングおよび西武百貨店と合併し、そごう・西武が発足。

「そごう」の社名・店名は創業者の名「十合」に由来。大阪が発祥の百貨店で、登記上の本店は創業から大阪店閉店までと心斎橋本店開店からそごう・西武への再編前まで、大阪の心斎橋に長年あった。それまで、大阪・心斎橋と神戸・三宮の2店舗だったが、1957年有楽町に東京店を開業し、「有楽町で逢いましょう」を宣伝文句に東京に進出した。同名の歌謡曲をはじめ歌番組や映画が制作され大流行となった。映画では大阪店・東京店が撮影に使用され、そごうが衣装提供も行った。
大和国十市郡十市村で絹屋として商売を営んでいた十合徳兵衛の息子として生まれた十合伊兵衛が、1830年に坐摩神社(火防陶器神社)の南隣、大坂上難波町に古手屋(古着屋)「大和屋」を開業したのが始まり。1872年(明治5)古手屋を廃業して呉服店へ転換し、1876年(明治9)安堂寺橋通三丁目に移転。翌1877年(明治10)には心斎橋筋一丁目に移転すると共に十合呉服店へ改称。
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とりとめのない話し(その56)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その16)

15世紀中頃から約100年間にわたるアイヌと和人の争いは、北海道西南部の日本人占拠を確定し松前氏による封建支配が確立し、この頃、行商人を起源とする近江商人の活動がこの地にも波及していた。

「高島南市」「八坂」「薩摩」「田中江」といった「五箇商人」を起源とする近江商人は、室町時代後半から北前船に到着した荷を小浜や若狭から九里半街道や七里半街道を通り、琵琶湖水運を利用し、輸送していた。

琵琶湖沿岸の「五箇商人」と対立していた湖東内地の「四本商人」は、大坂や京都への販路を拡大し、郷里とともに繊維や呉服問屋などに発展していった。一方、琵琶湖沿岸の「五箇商人」は主に海の物産を扱った商品が多く、琵琶湖水運を利用し、発展していったが、その他の輸送手段の発達により琵琶湖水運の優位性が無くなり、東北や北海道へ行商を拡大していった。

戦国時代になると湖西や湖東沿岸の「高島南市」「八坂」「薩摩」「田中江」などの「五箇商人」は、大名の保護を受けた「四本商人」に販路を奪われたため、衰退の一途を辿り、商売の地を求めて、郷里を捨てる近江商人も続出していた。特に彦根の「薩摩・柳川」や近江八幡の「田中江」の地から両浜組として、北海道(蝦夷地)の松前藩に活路を見いだしていた。

松前藩士が俸禄として得ていたアイヌの海産物の交易権の行使を、主に近江商人が請け負い交易を発展させた。利用港として隣国の若狭の小浜、あるいは越前の敦賀が用いられた。またこの船の船乗りには越前や若狭・加賀・能登など北陸の船乗りが用いられた。主に活躍した松前藩の近江商人は田附新助、建部七郎右衛門、藤野四郎兵衛、岡田弥三右衛門であった。

●北前船
江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船の名称。買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路(西廻海運)の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。

畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、畿内が経済だけでなく政治的にも日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。

●松前藩
松前島(夷島)松前(渡島国津軽郡を経て現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前家であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。

●シャクシャインの戦い
1669年6月にアイヌでシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた蜂起。アイヌ2部族の抗争、報復の最中に松前藩に対する武器貸与要請の使者に関する誤報から、松前藩への大規模な蜂起に発展した。日本の元号の「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起とも呼ばれている。

●田付 新助 (初代)
1581年−  1632年は、江戸時代初期、蝦夷地に進出した近江商人田付新助家の初代。田付景澄の子。屋号は福島屋。

田付家は、佐々木家支流六角氏遺臣の家柄で、1573年織田信長の攻撃により田付氏が籠る田付城(現滋賀県彦根市南三ツ谷町)が落城した。田付新助は、田付落城後の1581年近江愛知郡柳川村(現彦根市稲按司柳川)に生まれ、後に諱は景豊と称した。田付は田附とも書かれるが、本稿では『寛政重修諸家譜 第7巻 宇多源氏佐々木支流田付』記載に従い、田付を用いた。
数え14歳で武士を捨て商人を志し、同郷の建部七郎右衛門元重に相談の上、奥羽に赴き松前を調査し、蝦夷地各地を回り豊富な水産資源の将来性に着目した。その後、蝦夷地での事業協力者を故郷である近江柳川村・隣村の薩摩村(愛知郡薩摩村(現彦根市薩摩町))で有志を募り『両浜組』を組織し、近江商人の本格的な松前・蝦夷地進出に道を開いたとされる。
1602年津軽の鰺ヶ沢、1609年渡島国津軽郡福山(現北海道松前郡松前町字福山)に店を出し、自分の船を持ち物産の輸送と販売を始めた。これ以降、田付一族は蝦夷西海岸での漁場開拓とともに漁法・漁具の改良、漁獲物の加工・販売に取り組み、松前藩の『場所請負人』として蝦夷地経営に深くかかわった。また、漁獲物などの蝦夷地物産の運搬は、松前から日本海航路で敦賀で陸揚げし、七里半越と呼ばれる山道を経て琵琶湖北岸の海津港(現高島市マキノ町海津)に運ばれ、琵琶湖水運により故郷である柳川の港に集積し、その後京・大阪へ販売を行った。柳川港もこのために田付新助により開設されたと言われ、また付近の来向川も新助の開削とされ、のちに灌漑用水路として使用された。

●建部 七郎右衛門
安土桃山時代から江戸時代初期、蝦夷地進出の先駆けとなった近江商人。屋号は材木屋。
建部七郎右衛門、諱は元重と言う。建部家は天1573年織田信長との戦いに敗れ一家離散、七郎右衛門は近江愛知郡柳川(現滋賀県彦根市柳川町)に暮らし、武士を捨てたとされる。七郎右衛門は1588年野菜類の種子の行商で松前(現北海道松前郡松前町)に渡り、その後度々近江と松前を往復した。1590年には、松前の蠣崎慶広に豊臣秀吉との謁見を勧めたと伝えられる。

なお、建部家過去帳によると建部元重は1691年に数え77歳で死去、元重の父重武は1635年死去とされている。過去帳に従うならば前項記載事項(蠣崎慶広への秀吉謁見の話等)や、七郎右衛門が同郷の田付新助の相談に乗った結果、新助が1596年 - 1615年に津軽の鰺ヶ沢、渡島国津軽郡福山(現北海道松前郡松前町字福山)に出店したとの話もありえないことになる[1]。

但し、七郎右衛門が江戸時代初期に松前進出を果たし巨利を得、若狭小浜や越前敦賀で大船を建造し、主に米・味噌や生活用品を松前に運び、松前からは材木を上方に運んだ(北前船)とされ、屋号も『材木屋』と称していたことは事実である。建部氏の氏神である大宮神社(彦根市柳川町)には、七郎右衛門の持ち船(韋駄天丸・自在丸)が描かれた『松前渡海絵馬』が奉納されている。

●初代 藤野 喜兵衛
1770年 - 1828年江戸時代後期、高田屋嘉兵衛とほぼ同時期に蝦夷地に進出した近江商人・藤野喜兵衛家の初代。屋号は柏屋。

初代藤野喜兵衛は1770年近江国愛知郡(後の日枝村、現滋賀県犬上郡豊郷町)の商人4代目藤野四郎兵衛の次男として生まれ、諱は喜昌と言う。1781年初めて蝦夷地に渡り、福山(現北海道松前町字福山)で義兄宮川清右衛門(屋号萬屋)の店に丁稚奉公し、1800年独立して松前城下の松ヶ崎に店を開き、屋号を『柏屋』・商標を『又の字の下に十(通称又十)』とし、物産販売・海運業を始めた。

順調に家業は伸び船7隻を保有する迄になり、1806年に余市場所を請け負い場所請負商人となった。1808年には宗谷・枝幸・常呂・網走・斜里場所などの漁場を、また1821年には国後場所も請け負った。柏屋は数年で松前有数の豪商へと成長し、オホーツク海沿岸漁場の請負は1867年迄続いた。

蝦夷地は1799年に東蝦夷地、1807年には西蝦夷地が天領となり松前奉行が置かれた(松前藩は陸奥国伊達郡梁川に移封)。藤野家の蝦夷進出はまさに蝦夷地天領の時期に行われた。1821年蝦夷地の大半が松前藩へ返却される際は、藤野家船『常昌丸』が松前藩御用船として買い取られ、1822年藩主(松前章広)一行の松前復帰に用いられ、藤野喜兵衛は藩侯より名字帯刀を許され七人扶持勝手向き御用となった。その後、1823年には利尻・礼文場所も請け負った。

初代喜兵衛は文政9年兄である第5代藤野四郎兵衛が後継ぎなく死去したため、同年6代目として本家藤野四郎兵衛家を継いだ。1828年初代喜兵衛(6代四郎兵衛)が亡くなると長男が7代目藤野四郎兵衛となり、長女の婿養子百次郎が2代目藤野喜兵衛となった。なお、一部資料では初代喜兵衛が本家を継いだことから、喜兵衛を初代四郎兵衛、長男を二代目四郎兵衛としている。

●岡田 弥三右衛門
1568年 - 1654年江戸時代初期の商人で、蝦夷地に進出した近江商人・岡田八十次家の初代とされる。岡田家の当主は代々八十次(やそじ)と称し(八十治と記される資料もある)、本項弥三右衛門を初代の八十次とする記述もある(国史大辞典)が、初代の名乗りは弥三右衛門が正しく、一般に呼びならわされている八十次を称したのは7代目以後とされている。

近江国では、六角氏衰退・浅井氏滅亡の後、多くの両氏一族・遺臣が帰農、又は商人へと転じていったが、岡田家も元武士の家柄とされる。岡田弥三右衛門は1568年の頃、蒲生郡加茂村(現在の滋賀県近江八幡市)に生まれた。

若い頃、安土城下で商売を営んでいたが、本能寺の変後安土城も落城したことから1586年豊臣秀次八幡城築城を契機に八幡城下爲心町に新たに店を設け、その後八幡城の廃城後に町が衰退すると、1596年 - 1615年に呉服太物を抱えて奥州に行商を始め、八戸を拠点とし、大いに蓄財をなした。

更に松前藩家臣工藤平右衛門の助力を受けて松前(現北海道松前町)に進出し、蝦夷地に呉服・太物・荒物を販売する支店を大松前に開き、屋号を「恵比須屋」とした。後に松前藩の信任を受けて、蝦夷地の千石船を用い海産物を日本海を経由(北前船)して出羽から北陸・上方へと運んだり、蝦夷地における漁場経営や物資の調達を請け負ったりして御用商人として活躍した。弥三右衛門は岡田家の蝦夷地での基盤を作り上げ、1651年に郷里近江八幡で死去した。

子孫も引き続き、松前の支店を拠点として蝦夷地における近江商人の中心的存在として活動、両浜町人の代表的商家の一つ。岡田家第10代の時には小樽内・古平・礼文・利尻など23ケ所で場所請負を行った。1871年に小樽(旧・小樽内)に支店を移して、12代目・13代目が北海道の開発事業に参加して小樽の町の基盤整備を行ったり、北海道で炭礦や農場を経営したり、更には九州地方でも事業展開を見せたが、当時としては時代よりも進み過ぎた事業も多く経営が苦しくなり、1901年に13代で破産を余儀なくされた。
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