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☆『山寺の和尚さん : コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズ '37 』
服部良一がメジャーデビューした頃はアメリカで流行っていたスイング・ジャズが我が国にも大量に輸入されていたが、スイングと並行してジャズ・コーラスもまたブームになっていた。アメリカ本国では1920年代からビング・クロスビーのいたリズム・ボーイズのスタイルが流行し、リズム・ボーイズと同じキャリアだった元祖女性コーラスグループのボズウェルシスターズもデビューしてその息もつかせぬアッパーな見事なコーラスワークを聴かせていたものだ。少し遅れてデビューしたミルス・ブラザーズは後々ドゥーワップの連中にも影響を与えた。これら本国アメリカのコーラスグループの技術の進化は目を見張るものがあり、一糸乱れぬリズム感覚の上に見事なハーモニーを利かすそのテクニックたるや、ジャズファンならずとも虜にしたものだった。服部がこれらのコーラスモノを見過ごす筈はなかった。が、流石の服部もマイナー契約時代はそうしたコーラスものまでは手が回らなかったらしく、服部は日本の民謡とジャズの融合を若い時分から模索していた。服部の生まれは大阪・玉造のはずれ本庄が出生の地であった。芸事好きな父によく近くの千日前の寄席や演芸場へ連れて行かれて、自然と落語や義太夫や照葉狂言、江州音頭、俄といった浪速特有の芸事に親しんでいった。母は母で富田林出身の気のいい浪速女でやはり、河内音頭や江州音頭が好きだった。服部良一はこのような貧乏の子沢山な家庭で育まれたのだ。2人の姉は近所で三味線や小唄を習っており、そうした環境が良一を音感のいい子へと成長させたのかもしれない。そうした純然たる和雅楽に染まったせいもあり青年になってからの良一が、そうした民謡を覚えたての和声学理論で、民謡をジャズ化することは極めて自然な成り行きであった。
服部の初めてレコードの仕事は大阪・三国にあったコッカレコードで服部のレコード仕事での師匠に当たる鳥取春陽の作品を編曲して時々は大阪コロムビアスタジオでの録音に立ち会うといった仕事が最初と言われている。コッカレコードは当時も今も珍しいセルロイド製のレコードで販売しており、今でもきちんと再生出来るらしくそのレコードはどこで見つけたのかは分からないが、2013年にぐらもくらぶからリリースされた『大大阪ジャズ』という稀少性の高い昭和初期の大阪のレコードメーカーからリリースされた音盤のオムニバス集に服部良一の最も古いレコードの仕事が復刻されている。このコッカレコードのことは服部良一の唯一の自伝『ぼくの音楽人生』にも記載されているにも関わらず2013年に初版された菊池清麿著の『評伝 服部良一』の中では一切触れられていないばかりか、巻末に於ける「服部良一ディスコグラフィー」からも省かれている。今では服部良一の第三者が書いた正史的な位置づけすらされているこうした本でさえ、誤記や記載漏れがあることをこの際、はっきり記して置くべきであろう。
昭和4年発売コッカレコード№63a ♫テルミー
"Tell Me" は国歌ジャズバンド名義だが服部良一の編曲で、しかもas.の奏者は服部自身とのこと。セルロイドレコードからの復刻だから、音質は劣悪だがよくぞ、このような盤が残っていてくれたものだ。♫テルミー はこの時代、服部が道頓堀のカフェーを幾店か掛け持ちしていた頃で、シンガーがたまたまその夜、欠勤すると仕方無しに服部がメガホンで唄っている内に服部の優しい歌声が評判となり、服部には"テルミーさん"というニックネームまで付いて女の子たちから黄色い声援が飛んできた、ということが自伝にも書かれている。♫テルミー は服部にとっても思い出深い一曲なのである。そういう意味で、アルト・サックスのソロだけだが、復刻盤で今の世にそれが聴けるというのはこの自伝の記述を裏付けるに足る重要な一曲ということになるのである。又、翌昭和5年リリースのコッカレコード№.144bの♫串本節 も服部の編曲とサックス(Cメロディサックス)でこのレコードは服部良一の名が初めてレコードレーベルに記載された記念碑的レコードだという。編曲・指揮者と記載されたらしいが、実際はサックスのソリまで吹いているのだから、若き日の服部の前のめりさがひしひしと伝わってくるではないか。
これらを発掘し、リリースさせたぐらもくらぶ並びに(株)メタカンパニーのスタッフらと毛利眞人らの尽力に深謝するのみである。こうして服部良一のレコードキャリアは最初からジャズ+民謡という和洋折衷から始まったのだ。
引き続きマイナーレーベルに身を置いた服部は紅茶メーカーとして有名な日東紅茶が親会社だったマイナーレコードのニットー時代にはキャリアハイの音楽監督という地位にまで上り詰めた。ここで服部は作曲、編曲家としてのみならずニットーレコードでリリースするレコード企画にも参画出来る立場を意味していた。服部の民謡+ジャズの需要はそこそこ保たれながらも他のレコード会社、ましてやメジャー級のレーベルでも各社自慢の編曲家達が次々と民謡をジャズ編曲したレコードをリリースしてゆき、服部ブランドは業界内でステイタスとなってゆく。この民謡+ジャズの精神は戦後も行なわれてゆき、この傾向に着目したのが大瀧詠一だった。彼の幼少期のスター小林旭がコロムビアから相当数の民謡をロック化してリリースされている事実を暴き、後に『日本ポップス伝』としてNHKFMから数回にわけて放送されたことは大瀧が日本に於けるポップスの歴史を俯瞰して解説するというミュージシャンのポップス史として注目に値する。この放送の中で大瀧は服部の初期コロムビア時代のレコード♫草津ジャズ を紹介して戦前に於ける腕利きミュージシャンによる民謡+ジャズの最高峰として紹介していた。又、ニットーレコード時代の印象的な仕事のひとつに、ビクターレコードの♫さくら音頭 の大ヒットに乗じたニットー版♫さくら音頭 の企画が持ち上がった時にも服部は敢然と抗議した様が自伝に書かれている。要するにニットーでもこの機を逃すまいとして、ニットー版♫さくら音頭 を!となった時に服部は……今更月並みな音頭をリリースしても大して売れないだろうと、いっそ違うアプローチが必要だ、と説いたのである。じゃーあ、どうしたら?という幹部連達に……おけさはどうでしょう?と提案したのだ。こうして昭和9年4月に浅草美ち奴の唄でリリースされた♫さくらおけさ はニットーレコードのメイン販路であった関西圏で一定の売上を記録したという。こうして服部良一の単なる作編曲家としてのみならない我が国ポップス界への貢献、という点に於いてはやはりジャズコーラスモノへの着手も見逃せられない。服部のニットーレコードに於ける音楽監督としての功績は民謡+ジャズ、の他にも例えばニットーレコード内に別レーベルを立ち上げた点も見逃せない。それはニットーレコードにドイツのクリスタルレコードと原盤供給契約を結ばせた点で実現が出来た。昭和9年11月に『日本クリスタル蓄音器合資会社』が設立された。このクリスタルレーベルで服部はいよいよ本格的にアメリカ産スイングジャズの歌謡曲化へのかなり思い切った舵を切る。例えば敬愛していたアメリカの作曲家ジョージ・ガーシュウィンの作曲した♫ラプソディー・イン・ブルー のようなシンフォニック・ジャズを作品化したりした。それが昭和10年6月リリースの♫意想曲1936(1)(2) である。これは服部の初の管弦楽曲であり、次年度の日本と世界の姿を交響楽にまとめた作品であり、意欲作であった。
楽曲形式は変奏曲で、途中♫ヴォルガの舟歌 や♫スラブ行進曲(チャイコフスキー作曲) の旋律が使用されたり、時に日本軍歌の名曲♫戦友 までもが飛び出す。レーベルには"日本クリスタル交響楽団"と記されたが内実は新交響楽団(後のNHK交響楽団)が演奏したらしい。そこに当時服部と仲の良かったジャズマンである谷口又士のtb.や斉藤広義のtp.が加わった豪華なミュージシャンたちが自慢のプレイを披露されたレコードだった。こうした実験精神が見事に結実したレコードの仕事を残した服部だったが、実はニットーレコード時代にも僅かながら、ジャズコーラスを試した痕跡が確認できる。昭和10年12月リリースの♫カッポレ はニットー・リズム・ボーイズという謎のグループにより吹き込まれてリリースされている。又、服部の作曲した楽曲でもしばしば男声(乃至女声)コーラスが登場するが、レーベルクレジットはなくとも明らかに服部がジャズコーラスを試している録音としては昭和10年6月リリースのクリスタルレーベル№.2008A♫カスタネット・タンゴ では藤川光男名義で吹き込まれたレコードで女声コーラスがハーモニーを付けている。因みに同曲は戦後の昭和24年に藤山一郎がカバーしている。その前月5月にもクリスタルレーベル№.2002B♫僕等のハイキング ではメインボーカル志村道夫のバックで男声コーラスが、確認出来る。又、服部はコロムビアへ移籍する直前にニットーレコードでコーラスグループを編成し「ファイブスターズ」と名付けてレッスンさせていたが、このグループ名義のレコードはとうとうリリースされずに、コロムビアへと移籍してしまう。
昭和11年4月~いよいよニットー及びタイヘイレコードの契約を満了し晴れて大手レコード会社コロムビアレコードへ移籍入社した。翌5月リリースの淡谷のり子とリズム・シスターズ名義の♫おしゃれ娘 は数えてコロムビアレコード移籍第5弾シングルで服部はここでメインボーカルの淡谷のり子のボーカルの間隙を縫うようにボズウェルシスターズ張りの女声コーラスを大胆にも起用する。いよいよ服部のジャズコーラスモノがここで早くも登場する。その後も、当時のレコード各社の共演盤となった外国曲のカバーとなった♫ミュージック・ゴーズ・ラウンド 、二葉あき子をメインボーカルに迎えてリズム・シスターズが活躍する♫月に踊る ♫ビロードの月 淡谷のり子とリズム・シスターズの再びの共演盤♫涙の踊子 、服部と中野忠晴プラスナカノ・リズム・ボーイズの初コラボ作品♫東京見物 に♫支那ルンバ 、などメインボーカルに彩りを添えるジャズコーラスモノは充実してきたが、服部の中ではもう一歩踏み込みたかった。それにこれらの意欲作は決してヒットした、とはおよそ言い難かった。それが遂に服部のコロムビア移籍後の初ヒットがリリースされた。それがあのジャズコーラスの傑作♫山寺の和尚さん であった。これについては服部の自伝に詳述されているので引用しよう。尚、この楽曲については作曲は服部ではなく日本古謡としている資料もあれば服部の作曲としているものもあり、統一見解が待たれる。何れにせよ、服部が大胆にもメインボーカルを置かずに、コーラスグループのみでのヒットは服部をして喜ばせたに違いない。
……ぼくは、むしろ、次のアップテンポの
♫ダガジグ ダガジグ ダガジグ ダガジグ エーホッホー
(リフレイン)の反復部分にジャズコーラスの真髄を見出していて、このアイデアはぼくが自由にやったところである。こうしたスキャット唱法はリズムメイカーとしてのぼくの武器であった。先輩作曲家達に追いつき追い越すには、ぼく自身の個性が必要である。それまでの♫おしゃれ娘 ♫東京見物 ♫月に踊る がヒットに至らなかったのは、中途半端なところがあり、メロディー優先の歌謡曲調を残していたからだという反省があった。♫山寺の和尚さん では、思い切ってリズム本位にし、ジャズ調に徹した。しかし、それだけでもヒットはしなかっただろう。題材に誰でも知ってる日本古謡の手毬うたを取り上げた事が良かったのだと考える。つまりジャズはジャズでも日本のジャズを目指した事が成功に繋がったのだろう。……
続




山寺の和尚さん

さきえ
#goldenokinawa

nonox
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カ((ノ`ェヾ))ム
#大瀧詠一
ま からの み
魔法の瞳
ロケンローしりとり
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マサヤス 龍之介
#大滝詠一 #ナイアガラ
☆『EACH TIME/ 大滝詠一 1984 ♯ 1
♫ペパーミント・ブルー まで』
本年も残り1カ月余。
寒さ一層厳しくなる折、読書子に於かれましては気候差、温度差にご注意遊ばされますようご自愛くださいまし。
年の瀬ともなりますと毎年、2013年の12月30日に亡くなった御大大滝詠一さんのことを思い出す。
あの日は大阪の赴任地から早めに帰省して当時の彼女とドライブを楽しんでいた。運転していた車が京葉道路を快走していたときだった。
自前のCDにも飽きてラヂヲに切り替えた夕刻のニュースで耳に飛び込んできた大滝死すの報に暫くはハンドルを握る手から力が抜けて行くのを感じながら意識だけはキチンと運転しなければ💦…との思いに駆られたことを昨日の様に思い出す。
解離性動脈烈…ニュースで聞き慣れない病名で亡くなった事を聴き、当日の朝林檎🍎を食べていての突然死と言っていたが正直解せなかった。然し、死んだ事は仕方のない事実。
余りに早過ぎる死に空しさと憤りと…なぜ?…と言う問い掛けが数日間頭から消えなかった。
あれから早12年と言う歳月が流れ様としている。
前回の『風街とデラシネ』田家秀樹 '21 初版 角川書店版 # 14-30 の項はアルバム「A LONG VACASION』の軌跡を辿ったが、今回は彼の最期のアルバムとなった『EACH TIME』のレコーディングデータを中心に話を進めて行こうと思う。有難いことに近年、堀内久彦氏が70年代からの大滝のレコーディングをまとめた著書が昨年までに刊行されたのでそれで『EACH TIME』のレコーディングの全容は把握出来る。参考資料は最後に付記しておく。
2004年2月18日、赤坂キャピトル東急に於ける湯浅 学氏から御大へのロングインタビューでの回想では、最初に録音した楽曲は♫夏のペーパーバック と言っているがコレクティングデータではこの楽曲の録音は1983.3.21となっており 最初の録音曲はun cutで1983.1.21である。このデータだけでは楽曲が分からなかった。インタビューでは1983.1.19に♫夏のペーパーバック と語っている。そして1.21に録音したのが1984年の渋谷陽一の番組で掛けたと言われているのがこのun cut である。しかしこの謎のun cut は昨年3月21日にリリースされた『EACH TIME 40th Anniversary Edision』に所収されていた、それまで未発表音源であった♫shuffle off であることが確認できる。
1.27には♫バチェラーガール を録音と語っており、これはデータと合致する。
大滝詠一の場合こうした証言とデータの乖離がかなり頻繁におこるが、これも性格ゆえ、致し難し。それについては山下達郎もそういった指摘をラジオでしていたことがある。
堀内久彦氏が昨年までに著したレコーディング・ダイアリーは主に大滝詠一亡き後にナイアガラエンタープライズを率いる大滝の娘婿の坂口修氏からの録音テープの開示があったのが大きい。大滝詠一本人の判断で大滝はレコーディング中のミュージシャンたちとのやりとりの様子を克明に記録していた。堀内久彦氏はそれを文字起こししてゆく。『EACH TIME』の各曲はすべて六本木ソニーのスタジオで行われた。今回堀内久彦の労作のおかげで断片的だった情報が白日のもとにされて、その全容が掴めたのだ。感謝しかない。
先ず、ハッキリしたのが、最初に録音されたのが
♫夏のぺーパーバック か♫shaffle off か、の問題は湯浅学と大滝詠一との2004年の対談でも話し合われていたとおり♫夏のペーパーバック であった。1983年1月19日 。ドラムは上原"ユカリ"裕。ベースはこのアルバムの殆どの楽曲が長岡道夫。
長岡はナイアガラセッションの常連ベーシストのように言われているが、長岡が大滝のレコーディングに呼ばれたのは実はロンバケセッションからであった。ロンバケの頃の長岡と言えばあの、SHOUGUNのベーシストであり、1978年にeg.の芳野藤丸らとバンドを結成して、松田優作主演のドラマ「探偵物語」の音楽を手掛けてヒット、多忙な頃だったと云う。70年代後半の大滝セッションのメンバーはKB.の井上鑑を中心としたメンバーたちであり、その頃のベーシストは金田一昌吾であり、これにds.の宗台春男を加えれば泣く子も黙るピンクレディーのバッキングを数多くこなしていた。それで大滝の70年代最後のアルバム「Let's Ondo Again」所収の♫ピンクレディー は正にそう云う理由から大瀧が発想して生まれた楽曲だった。ところが、金田一が79年一杯でスタジオミュージシャンを辞めて札幌に帰ってしまったので、代わりのベーシストとしてインペグ屋から声が掛かり長岡にお鉢が回ってきたのだと云う。本年11月1日に発行されたばかりの湯浅学のロンバケの本の中で湯浅は長岡にもインタビューしていて、貴重な数多の証言を取り付けている。
さて『EACH TIME』の初日セッションのミュージシャンたち他のメンバーでは eg.に村松邦男。ここでのeg.村松の役割は殆どリズム。ソロは鈴木茂が担うがこれらリズムを先に録り、後にこのリズムセクションを聴きながら鈴木がソロを弾くのだが、そのダビング作業日が別立てで組まれているので、この初セッションに鈴木は不参加である。大滝のリズムセクションの要とも言えるagに大滝は4人呼集している。ロンバケセッション以来の安田裕美と吉川忠英、そしてこの日はベテラン奏者の石川鷹彦も大滝セッションに初参加している。更にナイアガラサウンドの肝とも言うべきperc.所謂、カスタネット隊としてはティン・パン・アレーの重要メンバーの一人、浜口茂外也(作曲家浜口庫之助の子息)、斎藤ノブほか総勢4人が揃えられて、粗方のリズムセクションの人々は一同に会した。大滝の紡ぐ所謂ナイアガラサウンドは全員せーので、一発録りとよく言われるが、このようにリズムはリズムで全員を集めて一発録りされるが、後日gのソロをダビングしたりストリングスやブラスセクションはまた別録りなのである。厳密な意味での一発録りとはちょと違う。大滝はレコーディング時にミュージシャンを集結して輪の真ん中でマイクでこれら塊の音群にそれぞれ冗談を交えながら細かい指示を出してゆく。時に口伝えで、時に音楽用語を駆使して。そのコール&レスポンスの模様はこの堀内久彦の書に詳しいのだが、1月21日、二回目のセッションで、♫shuffle off がほぼ初日と同じメンバーが呼集された。結局はボツになる録音だったがこのドキュメントを読むとそんな演奏でも大滝はダメ出しをしたりかなり綿密にミュージシャンたちにあれこれ要求している。次が、2月5日の録音でこれはアルバムには入れなかった曲で翌年NHKからの番組主題歌として採用された♫マルチスコープのテーマ(ゆらりろ) として使用されON AIRされ、それから暫くは放置状態だったものが1990年代の山下達郎との新春放談オンエアー時にリクエストが届きそこで初放送後、1995年3月21日にリリースされた「EIICHI OHTAKI Song Book II 大滝詠一作品集 VOL.2(1971-1988)」と言う大滝本人監修による大滝の楽曲提供作品集の中で初披露された。
そしてその翌日は前々から構想を練っていたと言っている♫1969年のドラッグレース これもデータ通り1984.2.6の録音。この日はギター🎸の鈴木茂に予めファイアーバードを持参することを頼んでいたと言う。それであのハードなアプローチが生きた!
お次は2月9日に♫恋のナックルボール の未発表テイク。本テイクよりも大分テンポを落としてダースベイダーの声迄いれている(?)。これはデータには未記載であり、かなりややこしい。このテイクは2004年3月21日リリースの「EACH TIME」20周年エディション盤で初リリースされた。2月15日火曜日にアルバム本来の同曲のヴァージョンが録音された。
そして薬師丸ひろ子から映画主題歌のオファーを受け一旦アルバムはオミットとなるが、何せアルバム制作期間中なのでミュージシャンは当然『EACH TIME』と同じ、従ってミキサーもメインの吉田保(吉田美奈子実兄)が司るからサウンドもアルバムと全く同じなのである。この録音が♫探偵物語 と♫すこしだけやさしく になり♫すこしだけ… が2.20 ♫探偵物語 が2.22 に録音。この時点では曲のタイトルは♫すこしだけやさしく が探偵物語で♫探偵物語 は海のスケッチ だった。大瀧の解説によると、それまで薬師丸について何もしらなかった大瀧はこのオファーが来て慌てて薬師丸の主演映画を観たらしい。とある映画の中で薬師丸が久保田早紀の♫異邦人 を唄うシーンを観て印象に残り薬師丸にメリーポプキンのイメージをダブらせたという。そこで作ったのが♫すこしだけやさしく だったという。ところが、この明るいタイプの曲は余りご本人に気に入って貰えなかったようで、もう少し暗くしっとりしたタイプの曲を、という注文があり、急遽作ったのが♫海のスケッチ だった。映画主題歌ということもあり当初から主題歌は映画のタイトルそのままで行くことになっていたことから、そーなったというのが経緯らしい。
間髪入れずにアルバム楽曲に戻り2.27に♫木の葉のスケッチ を録音、アルバムのクレジットでも確認できるMr.北村英治 ことジャズクラリネット奏者の北村英治をスタジオに招聘してこの楽曲で印象的なソロを吹いた。
その翌日に薬師丸ひろ子の♫探偵物語(変更前だから実質的にはすこしだけやさしく Vo.ダビング、3月1日にはミュージシャンの各種ダビング作業を行う。薬師丸の歌入れ♫海のスケッチ 3月3日、ミックスを終えて完成させたのが3月5日。場所はいずれも東芝のスタジオであった。
因みに映画「探偵物語」の音楽は加藤和彦がプロデュースを手掛けて作曲も彼だった。翌日の3月6日日曜日に大滝はレコーディングの合間に東芝EMIの3スタへ行き薬師丸のサントラ盤用劇中セリフの録音に顔を出しており、加藤の仕切るサントラには関与はなかったものの、礼を尽くしている。
そして3月11日金曜日にアルバムでも一番華がある♫ペパーミントブルー を録る。ドラマーは山下達郎の右腕ドラマーだった青山純に替わっている。
しかし、これを大滝はシングルカットしなかった。それに対する発言はないのだが、この曲について大滝は「…ずーっとあのアルバム聴くたんびに、なんかね、葬式のアルバムみたいな気がしてさ。とにかく(歌詞も)終わる話ばっかりなんだよなあ(笑)。うまくいかない話と終わる話ばっかりで。唯一♫ペパーミントブルー みたいなものも、良さそうででも陰がもの凄くあるんだよね。」と20年目に回想している。
確かに言われてみればそうだが、そんな本人の感慨とは関係なしに真っさらな心情で聴いていただければそれなりにリゾート🏝感なアプローチに聴こえるはずだ。
レコーディングを開始してから凡そ2ヶ月。当初このアルバムは1983年7月28日にリリースされる予定だったが、大滝の細かいディテールにまで拘る音作りなどから後から制作期間は伸びてゆく。
続
参考文献
・ALL ABOUT NIAGARA : 大滝詠一 増補改訂版 白夜書房2005年12月7日刊
・大滝詠一Talks About Niagara レコードコレクターズ2014年4月刊
・大滝詠一レコーディング・ダイアリーVOL.3
堀内久、






ペパーミント・ブルー

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のんの
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