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マサヤス 龍之介
#読書の星
☆『風街とデラシネ』田家秀樹 '21 初版 角川書店
70年代の終幕~桑名正博との仕事
私は本アカの『ミチフミ龍之介』で松本隆の詞をほぼ毎日投稿している。立派な著作権法違反だが、なにかあったらグラビティに責任を担って頂く事でいいでしょう笑
昨年中原中也の詩をずっと投稿してそれも約半年に及び一段落したので、何かいいポエムはないかと考えていたら、我が書架(そんな立派なものではない💦)に松本隆の『風のくわるてっと』があったので、松本隆なら沢山の詞があるから長期連載には丁度いいと思い連載を始めたのだった。それが昨年の10月12日である。この詩集は松本隆の初期の作品をあつめたものだったからタイトルも
『風のくわるてっと~松本隆初期作品詩集』とした。10月に始めて# 54まで詩集に掲載されている順番で載せていき詩集の最後の詞を載せたのが12月5日だった。はっぴいえんど以前のものから南佳孝のファーストアルバムの詞まで合計54編の詞を載せてその後はタイトルを『風のquartet~松本隆作品詩集』と変更し、翌日12月6日から今日に至る。松本隆のキチンとした作品リストは残念ながら見付けられなかったのでWikipediaの「主な作品」を参考に辿っていて、現在は山口百恵への提供詞まできた。年代順ではなくアーティスト名順に掲載されているので、仕方なしに勘を頼りに70年代にリリースされたであろうアーティストを先ず先に絞って掲載することにした。なので、現在は丁度その折り返し辺りであろうか。この掲載は程なく80年代以降に入る。という訳で、この田家秀樹の評伝紹介も70年代の終わりに差し掛かり、ミチフミ龍之介の投稿と面白いことに予想外の符号だったので、ちょっと紹介してみた。
70年代終わりに松本隆が取り組んだのは桑名正博であった。因みにミチフミ龍之介の方では桑名正博の詞を12編紹介している。# 148~# 159まで、本年の3月10日から3月23日に掲載して作品は以下の通り。
# 148 『真夜中列車第二便』
# 149 『哀愁トゥナイト』
# 150 『恋のブギウギ』
# 151 『セントラル・パーク』
# 152 『ダンシング』
# 153 『薔薇と海賊』
# 154 『サード・レディー』
# 155 『テキーラ・ムーン』
# 156 『ロード・マシーン』
# 157 『スコーピオン』
# 158 『俺たちに明日はない』
# 159 『セクシャルバイオレットNo.1』
3月17日と20日の投稿を私はサボったので、日にちのズレはそういう意味である。
さて、話は本題に入るが、この桑名正博は生まれも育ちも大阪で上京前迄は大阪の人気ロックバンド"ファニーカンパニー"でヴォーカルを張っていた。このファニカンをプロデュースしたのが、内田"rockn' roll"裕也である。内田も元はといえば関西出身だったから関西特有の反骨精神を持ち合わせていたのだろう。あの名コピー"西のファニカン 東のキャロル"は内田が名付けた、と田家は紹介している。今で云うオールディーズ時代にテレビのスタジオで生意気な口をきいた中尾ミエを泣かせたこともある、と豪語していた内田裕也はロカビリー末期に佐川満男らと最初のバンドを組みデビューしていた。さしたるヒット曲もないのに態度はデカい、と生前、自虐ネタまで披露していたが年末恒例のニューイヤーロックフェスティバルを長年主催し、数々の後輩ロックバンドをデビューさせたのは紛れもなく内田の功績である。内田と云えば度々俎上に上るのがこの本の著者の田家秀樹も編集していた新宿プレイマップにおける1970年に大滝詠一との日本語ロック論争だが、その後大滝と内田は1972年にヤングギター誌でも刺し向かいで対談しており、内田の日本語ロック全否定論に対し大滝はサラりと受け流して流石に前回の教訓から学んだのか、内田の好きなプレスリーのレコードを全部持っている……という自家薬籠中に引き釣り込み、見事内田とは今回ばかりは円満に対談を終えていた。それ以来内田と大滝との接点は無かったが2013年12月30日の大滝の逝去の報に内田からもコメントが発せられて「"日本語のフォークとロック”というテーマで音楽雑誌で対談(72年5月)したが、その後は会っていない。オレのタイプじゃない音楽だが、そのジャンルは大いに認められるべきだ」と好意的なコメントをのこした。
桑名正博は1975年にソロデビューし1977年に初めて松本隆の詞で歌った。♫哀愁トゥナイト
のプロデュースを手掛けたのは山下達郎の最大のビジネスパーソンの小杉理宇造だった。この頃はRCAの一介のディレクターだったのだ。そしてこの時プロデュースを担ったのが内田と共にファニーカンパニーをプロデュースしてきた寺本幸司(ゆきじ)である。寺本は1966年に日本初のインディペンデントレーベルを創設した人物で、それだけで日本の音楽界には十分な功績があるが、後に浅川マキ、下田逸郎、りりィ、イルカなどの後世に残るアーティストをプロデュースした実績もある。天井桟敷や東京キッドブラザースといった演劇界ともパイプがあり、天井桟敷の寺山修司と浅川マキを結び付けたのも寺島だった。そして筒美京平ともポリドール系のインディペンデントレーベル日本グラモフォン時代に邂逅していた。寺本の証言がこの本で書かれている。「京平さんが松本隆でどう、ということでしたね。それまでは僕の中では少し距離がある人だった。言葉は悪いですが♫微熱少年 みたいなちょっと気取った感覚は、僕の趣味じゃないと思ってたのね。京平さんが♫木綿のハンカチーフ みたいなものも書けるよと言ってくれて2人で会いに行ったところから始まってます」「僕は、歌は3分半のドラマだから面白い、というタイプなんで、桑名というヴォーカリストをいろんな舞台に立たせたかった。寺山さんが浅川マキに台本を書くように詞を書いていたのを知ってましたからね。桑名の持っている"花"みたいなものが咲けばな、と。♫哀愁トゥナイト は、メロディーや詞が完璧だというくらいに惚れこみましたね。松本隆はドラマーですし身体の中にリズムがあるから、一つ一つの言葉がメロディーに乗ると生き生きしてくる。桑名には"哀愁"じゃなくて"I Shoot トゥナイト"、『夜を撃て』と唄えよ、という話は随分としました」だが、♫哀愁トゥナイト は思う様な結果を残せ無かった。ここで田家はその原因は2つあると断言している。一つはそれまでのファニカンやロックのファンが桑名へのイメージと筒美京平=松本隆というコンビに齟齬があった、ということ。寺本の証言は続く。「僕のことを、桑名を歌謡曲に売ってしまった罪悪人という人が大阪のロックファンの中にはいっぱいいたんです。裕也さんも筒美京平が嫌いでしたから、夜中に電話が掛かってきて、同じようなことを言われたことは何度もありましたね。でも、松本隆に対しての悪口を言ったことはなかったと思います」ここに関してはWikipediで更に詳述が載っていた。
……内田が、寺本宅に夜中の1時頃電話してきて、「お前は桑名を歌謡曲歌手にしやがったな!」と酔って大声で怒鳴り、寺本が「裕也さん、桑名はロックをやってると思いますよ」と返答したら、「何がロックだ!売れれば何でもいいのか、この裏切り者!」と罵り、「裕也さん、ロックに形はあるんですか。ロックはスピリッツがあるかどうかじゃないですか」と切り返したらガチャンと電話を切ったという。その後小杉理宇造がカネボウ化粧品のキャンペーンソングの話を持ち込んで来た時には、桑名はこれをやったらますます歌謡曲寄りになり、内田に殴り込まれるかも知れないという恐怖を感じたが、「歌手を止めさせて(家業の)桑名興行の跡取りにする」(桑名は桑名興行からずっと役員報酬を受け取っていた)と迫った桑名の父親に「日本一の歌手にします!」と啖呵を切ったこともあり、寺本はその誘惑に負け、これを承諾したという。……寺本は内田より1歳年上である。その分短気な内田に対して冷静に対処する余裕が寺本にはあったようだ。もう一つの売上が芳しく無かった原因として田家は、このシングル同曲が所収された2枚目のアルバム『マサヒロII』リリース後、桑名が不祥事で逮捕され表立ったプロモーション活動が出来なくなったことを田家は挙げている。松本がその大半の歌詞を手掛けたアルバムは3枚。『マサヒロII』'77.7リリース 『テキーラ・ムーン』'78.7『KUWANA No.5』'79.6 私は12曲の桑名の松本詞を本アカの投稿で載せたがそれでもこぼれ落ちたものもある。'79にリリースされた3つ目のアルバムに所収された♫予め追放された者たち というタイトルで、田家は同書の中でこの曲について「ジェームスディーンの代表作映画『エデンの東』をモティーフにしたと思われる劇的な楽曲で、松本の詞にシンガー桑名自らが作曲を手掛けているのだが、二人の真剣勝負が刻まれている」とある。その詞を最後に掲げて70年代の項を締めたい。そして桑名の晩年ついてWikiから転載しておく。
淋しい顔した人達が
グレイの都会を流れてる
レミングみたいに声もなく
グレイの都会を流れてる
ここはエデンの東
ジェインは単位が足りなくて
教授の自宅のベルを押す
硝子の瞳のウインクに
教授はパイプを床に置く
馬鹿な世界さ!!
ポールは貧しい恋人に
ダイヤの指輪を買うために
ナイフを片手にウラ町の
ストアで人生反古にした
淋しい顔した人がのる
電車の行方は何処だろう
すました仮面の裏側に
真っ赤な涙が流れてる
ここはエデンの東
ジャニスが抱いてる乳飲み子は
ミルクも飲まずに泣いている
この世に生まれて来たことの
不幸に気付いて泣いている
馬鹿な世界さ!!
モーレア神父は教会で
愛とは何かを話してる
信者は一人も来ないのに
椅子たち相手に話してる
淋しい顔した人たちが
グレイの都会を流れてる
ここはエデンの東
エデンの園から神々は
アダムとイブとを追い出した
俺たちカインの申し子は
真っ赤な涙を流してる
ここはエデンの東
2003年10月に吉本興業入り。
2006年、静かな生活がしたい、と軽井沢へ転居する。
2012年7月15日早朝に大阪市内の自宅で脳幹出血により倒れ、大阪市住之江区の友愛会病院に緊急搬送されたが、意識不明の重体となる。
ゲスト出演した『ライオンのごきげんよう』が7月20日に放映され、7月11日に収録されたものである旨が表示された。3回の出演予定だったが、残り2回は7月18日に収録予定だったため、出演はこの回きりとなった。
8月2日に、入院先の病院で長引く闘病生活に耐えるため気道に注入された人工呼吸器を外し、気管切開の手術を受けた。長らく意識不明の状態であったが、10月26日午前11時44分に心不全のため死去。59歳没。
葬儀・告別式は10月30日に大阪市阿倍野区内の葬儀場で行われ、約700人が参列し、原田喧太が弔辞を読んだ。出棺後、巨大な遺影を掲げた白いベンツGクラスのオープンカーに続き桑名の棺を乗せたリンカーンの霊柩車が御堂筋を走る。5,000人余の大阪市民や橋下徹市長らに見送られ、市内南部にある瓜破斎場で荼毘に付された。法名は、明月院釋響流(みょうげついんしゃくこおる)。
続

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マサヤス 龍之介
愛用品:宮沢賢治のペン立て
嗜好類:タバコ〜ピースSL 酒〜サントリー角瓶
趣味 :アナログレコード鑑賞 主にErly Jazz シティポップ 昭和SPレコード
グラヴィティ音声ルーム
食 : 元々、関東人なので焼きトン、魚は赤魚粕漬け たまに細巻き寿司 山芋短冊切
り 藁納豆
プロ野球 : 10歳頃から阪神タイガースファン
フォロワー要綱:以後放置な方は随時外してます。
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Moana
GRAVITY内だけよろしくお願いします☺︎
好きな服来て、編みあみしてマイペースな日常日記🌱
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ななみ
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ゆーな
jealkb、DaizyStripperなどが好きな北海道住みのバンギャです。
ゲーム実況を見るのも好きです。
最終兵器俺達など。
雪ミクも好きだったり。
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れみんぐ🦫
横浜DeNAベイスターズとオ―トバイが好きな中年ライダーです😊
よろしく🤗
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