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ミュシャ

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お行儀よく叫ぶには芸術すぎて
私不在の時間が存在しても
世界は日常通りいつかって
言葉のモニュメントを
私のツリーに飾って微笑む通行人
無意味なオブジェになって
誰にも訳せない言葉で歌って
宇宙の塵となればいい
夜の砂浜だけが私を知っている

#詩
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エントロピー

エントロピー

ヒッピーとウイスキーとビートニクとカウンターカルチャーや不良の物語はしまいには
自身が語り部詩人になるかか
地球歩きの始祖、サカキナナオの世界に行き着く

詩人・ナナオサカキ |森を歩いていますか、君は?
「地球を家とし、宇宙を放浪する人間家族の長老」と形容される自由詩人、ナナオサカキ。日本はもちろん、世界各地を放浪し、詩を作ってきた。束ねた白く長い髪、長い髭。その姿は中国の仙人の如し。そして張りのある声。話す言葉はまるで […]
11/05/2013

「地球を家とし、宇宙を放浪する人間家族の長老」と形容される自由詩人、ナナオサカキ。日本はもちろん、世界各地を放浪し、詩を作ってきた。束ねた白く長い髪、長い髭。その姿は中国の仙人の如し。そして張りのある声。話す言葉はまるでポエトリー・リーディングのよう。彼の詩は、自分の足で歩いて、ネーチャーを感じながら生きる彼の人生そのものである。マスメディアには姿を見せないが、今回は美術家の吉田比登志さん(本誌26号から連載が始まった版画家・吉田博のお孫さん)のお宅に偶然遊びに来た彼に、話を聞くことができた。
このインタビューは『ペーパースカイ』No.28(2009年)に掲載されたものです。インタビュー:編集部 文:角野淳
 
歩くこと、詩を書くことが人生 そして日本の森に思うこと
ナナオサカキさんは現在86歳(当時)。戦後まもなく放浪の旅に出て、現在まで定住の地を持たず、あらゆる所有と無縁の生活を送り続けている。彼の存在は日本よりも海外で知られている。ビートニクの詩人で盟友でもあるゲーリー・スナイダーは「ナナオの詩は、手や頭で書かれたものではなく、足で書いたものである。これらの詩は坐ることで生まれ、歩くことで生まれた詩であって、知性や教養のためではなく、生のために、生きた生の軌跡としてここにある。(中略)ナナオの詩を靴の中に入れて、何マイルも歩かんことを!」と彼を評し、アレン・ギンズバーグは「たくさんの渓流に洗われた頭/四つの大陸を歩いてきたきれいな足/(中略)ナナオの両手は頼りになる/星のように鋭いペンと斧」という詩を残している。
 
——世界中を歩き回って詩を書いていますね?
「世界中というほどではないよ。ある程度、歩き回ったというだけ。ヨーロッパ、アメリカ、カナダ、オーストラリア、メキシコ。中国大陸は少しだけ。今度はどこを歩きましょう(笑)。アフリカ、それから南アメリカ、アンデス、アマゾンかな。アフリカならコンゴを歩いてみたいですね」
——小さい頃から外国への憧れはありましたか?
「ありましたね。いろんな風景に接したいという思いが当然のように。子どもの頃からそういう好奇心があった。兄の一人が京都大学を卒業して、南米に移民団を連れて行くことになった。小学1年生の頃です。それに僕も便乗させてもらおうと思っていた。戦争が始まって実現しませんでしたが、その頃から外へ出ることを考えていました」
——日本はだいたい歩いたのですか?
「だいたい日本列島は歩いたな。行ってないところは珍しいね。原生林で生活したり、川を歩いたり。歩くとどこへ行っても柳田國男と宮本常一の痕跡と出会うんだな」
——1950年代に原生林を旅したのはなぜですか?
「森を歩いていますか、君は? 原生林はわかりますか? ……ないだろうね。今の日本には原生林はほとんどない。奥秩父とか四国とか東北にわずかにね、ちょっぴり残っているだけだ。原生林で過ごしたのは1年や2年じゃない。若い彫刻家と一緒に屋久島や知床、奥秩父の森で数年間、暮らしたんだ。僕がインスピレーションを出して、彼に作品を作ってもらった。木で作った非常にアブストラクトな作品でした。でも、もう今は森がない。日本人は森と縁がなくなった。だから日本にいたくない。本当に寂しい。悲しいです」
——日本人はいつから森と離れたのですか?
「戦後、急に離れたね。戦前は森は命で、森がなくなることは恐怖だった。今は命を感じないじゃない。狼がいるわけでもない。狼がいないっていうのは寂しい話ですよ。……それは無理だ。この貧しさでは。山が貧しすぎる。僕自身が最後に狼に出会ったのはずいぶん昔、紀伊半島の大峰山ですね。あの辺が最後です。だから今、森を歩いても面白くないのね」
——アメリカにはまだ狼がいます。
「ヨーロッパはいないけどアラスカまで行くと狼がいるからな。あの鳴き声をきいたら、たまらんわ。アメリカにはコヨーテもいるからね。アメリカの砂漠でコヨーテと出会うと嬉しいです。やっぱり生きてたかい? 元気かい? と言いたくなる。コヨーテが鳴いてくれると嬉しくなるよ」
 
詩人ナナオサカキの生い立ちとカウンターカルチャーとの出会い
——小さい頃から森を歩いていたのですか?
「12、13歳ぐらいかな。一人で歩き出した。家の近くに紫尾山という標高1000メートルほどのいい山があってね。ちょうど鹿児島と熊本の県境だ」
——当時の子どもは森に入って遊んでいた?
「いや、ほとんど誰も歩かなかった。僕はちょっと変わった子どもだった。森に入って見るもの感じるものが面白かった。ベニテングタケなどはいつの間にか覚えたね。ちょっとかじっただけで『これはいける。毒だけれど、うまい』ってね(笑)」
——その後、海軍に召集されたのですよね?
「18歳での海軍基地に放り込まれた。僕は最前線のレーダー部隊だった。一番狙われるけど、その代わりに情報が入るわけですよ。その頃からロングヘアーでした」
——それは問題なかったのですか? 
「問題なかった。つまり軍の中でも特別なポジションだったから」
——ロングヘアーは誰かに影響されたのですか?
「そうじゃない。自己主張です。ロングヘアーにしていないと癪だったから。そういう気持ちはよくわからないだろうね。その頃は髪を伸ばす、髭を伸ばすというのは特権的なことだったから」
——詩を書き始めたのはいつですか?
「12、13歳です。ちょうど山に行き出した頃」
——自然から影響を受けましたか?
「やっぱりそうですね。子どもの頃から書いていたけれど、自分ではそれを詩だとは思っていなかった」
——戦後はどうされたのですか?
「2年ぐらい農業をした後、上京して改造社という総合出版社で社長秘書みたいなことをやっていた。でも、長くは続かなかったな。それで上野でフーテンになった。2年ぐらいして新宿近くのスラムに引っ越した。そこでダンサー、画家、ジャズミュージシャン、アーティスト、詩人などとても面白い人々と出会いました。英語やフランス語を独学で勉強し、オーストラリアのアボリジニのアートやアメリカのネーティブの岩窟壁画に興味を持ちました」
——そして「部族」の活動が始まるのですね?
「そうなりますね」
 
「部族」の活動については、少し補足をしておいたほうがいいだろう。60年代、新宿には飛躍的な経済発展をする社会に背を向けて、権力やお金中心主義の社会を否定して生きる若者たちが集まっていたという。ナナオさんは詩人や芸術家とともに「バム・アカデミー(乞食学会)」を名乗り、新宿ビートニクとして、後のヒッピー・ムーブメントの礎を築いていく。その後、詩人の山尾三省たちのグループと出会い、コミューン活動「部族」が始まる。「部族」は自然と密着して生きる共同体を文明社会に復活させることを目標に掲げ、東京・国分寺や鹿児島・諏訪之瀬島で共同体生活を実践するようになる。ナナオさんは67年に鹿児島のトカラ列島にある諏訪之瀬島に入植し、数十人のコミューンを作って開墾、魚釣り、瞑想をしながら自給自足に近い暮らしを始める。
 
——なぜコミューンを作ったのですか?
「単純だ。つまり、一人では食えない。みんなであったら食えるだろう。だから簡単な論理だ。でも、多少、面倒になることもあった。つまり、どうしても個人主張が出てくる。私が、私が、というね。これにまいったね」
——本来、コミューンは自由が基本だと思うのですが、何がいけなかったのでしょう?
「日本人には訓練がなかった。一人ひとりが自由で、発想が健康で自由ということがなかった。コミューンというのは自我を主張したらダメなんですよ。しかし、自我を主張したくなるじゃない」
——「私」があるだけで、共同性がないということ?
「はっきり言えばそうだね。(コミューン活動は数年で終わってしまったけれど)コミューンというのは今でも自分の中にあるね。はっきりとね」
——日本人はコミューンには向かない?
「できますよ。簡単なことなんだ。つまり自我を捨てることができるかどうかなんだね。僕は自我が強いタイプじゃないし、僕の詩は自我主張じゃない」
 
詩は自我を超えたところにある
「部族」の活動を通して、ナナオさんはアレン・ギンズバーグやゲーリー・スナイダーといったビートニクを代表する作家と知り合い、親交を深め、69年から数年間をアメリカで暮らした。アメリカでは砂漠や山々、ネーティブの人々を訪ね、キャンプや洞窟で生活し、大地に根ざした日々を送った。
——自分をビートだと思いますか?
「そんなの何にも考えていない。とんでもない勘違いだ。僕は当たり前の人間だ。当たり前に生きてきただけ。ゲーリーもギンズバーグも、別に自分のことをビートとは思っていないでしょう」
——勝手にみんなが言っていただけ?
「そういうこと」
——アメリカへ行くきっかけは何だったのですか?
「突然、飛行機のチケットが送られてきた。ゲーリーがアメリカへ来い、と。アメリカではニューメキシコとアリゾナ、あの辺が好きで。いわゆるサウスウェスト。それからメキシコも歩き回りました。よく知っています」
——あの辺には森はありませんよね?
「森はない。砂漠だ。そしてネーティブが住んでいる。彼らとの触れ合いもたくさんありました。ホピとかズニとか、ナバホとか。彼らと一緒に何をしていたかって? 遊んでいた(笑)」
——森と砂漠では全然違いましたか?
「いや、違わない。両方とも豊かだ。森も砂漠も人口のものがないじゃない」
——リオ・グランデやモニュメント・バレー、タオス、オーストラリアの中央砂漠など、大自然のことを謳った詩がたくさんあります。詩を書くときはどういう気持ちで書いていますか?
「詩を書くというのは、自分とはちょっと別なことのようだな。どういうことなんだろうかな。書かなくてもいいんだけれど(笑)。でもやっぱり書きたくなる。で、出てくるね。そのプロセスが面白い」
——詩は自分を証明するものですか? それとも自分を超えたところから生まれるものですか?
「自分を超えてますね。宇宙空間にあるようなものを掴んでくる感じだね。詩は自我を超えることだ」
——それは自然の一部として暮らしてきたから、そういう感覚があるんでしょうか?
「そうだね。アメリカのネーティブやアボリジニたちも同じじゃないかな」
——今のアートや詩は自分を表現することが多いように感じます。
「だいぶそれとは話が違うね。自分だけに関心を持っている詩人もいるけれどもね」
——現代人は自然が自分たちと一緒にいるものだという感覚を失ってしまったような気がします。
「そうですね。本当の意味で生きるということが感じられなくなったということだ」
——ナナオさんは夢を見ますか?
「よく見るね。夢ばっかり見てるね。つらい夢も、いい夢も両方見るよ。地獄の夢を見たり、天国の夢を見たり。毛虫の夢はよく見るな。自分が毛虫になって這い回っている。嫌なやつを見たら噛みつく。怖いよ、危ないよ、飛びつかれるよ(笑)」
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れん

れん

2日目はバカリャウのグラタンとタコのリゾットとエッグタルトタルトを食べました!バカリャウのグラタンが想像以上に美味しすぎてまた食べたい!🤤
グルメ以外では、ジェロニモス修道院、発見のモニュメント、LX factory 、アルコ・ダ・ルア・アウグスタなどに行きました!Lisboa cardを初日に2日間分買っていたのでどこも無料で登ったりできたのでよかったです!
個人的にLX factoryが、雑貨とか色々なお店が集まっててどこも見ているのが楽しかったです♪
海外旅行好きの星海外旅行好きの星
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こう

こう

久々鳥取に海釣りに行ってきました🎣
途中「潮風の丘とまり」というとこに寄り撮った写真です!なぜかリアルな恐竜🦕のモニュメントがいくつかあります!
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ヒィ〜ちゃん❤︎

ヒィ〜ちゃん❤︎

震災がなければ…」死者6434人に含まれない「遠因死」 知られざる遺族の悲しみ 阪神・淡路大震災31年【報道特集】

31年前の1月17日に発生した、阪神・淡路大震災。死者6434人とされていますが、そこには含まれない「遠因死」と呼ばれる人たちがいます。震災に人生を翻弄された知られざる犠牲者と遺族の悲しみを取材しました。

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「震災がなければ母はもっと生きられた」阪神大震災の死者数“なんで、6000何人って、毎回言うてるんや”
神戸市中央区に住む早川真さん(64)。

「震災がなければ、母はもっと生きられた」。そんな思いを抱き続けている。

早川真さん
「94年4月って書いているから、亡くなる1年前ですね。すごく明るくて、おおらかな人で、みんなから好かれるタイプの人でしたね」

厳しくも愛情深かった母・キヨ子さんは、孫たちとの時間を過ごすのを楽しみにしていた。

しかし、あの日、人生が暗転する。

31年前の1月17日。マグニチュード7.3、最大震度7の激震が神戸を襲った。戦後初の大都市直下型地震、阪神・淡路大震災だ。

キヨ子さんは無事だったが、自宅が半壊し、近くの避難所に身を寄せた。気丈に振るまっていたキヨ子さん。しかし、十分な暖房もない環境と、持病の高血圧の悪化が体をむしばんでいった。

早川真さん
「『寒いわ』と。寒いから、たくさん服や毛布とかを絡めて寝ていたのを覚えてますね」
「『薬がないねん、それが困ってんねん』という話でしたね。血圧の薬飲んでなくて、寒い所におって60過ぎていたら、それはもう病気になって倒れてくださいというような状況ですよね」

地震から約3か月後、キヨ子さんは脳出血で倒れた。さらに不運が重なる。医師の不足や、満床状態などを理由に、受け入れてくれる病院がなかなか見つからず、たらい回しとなったのだ。

ようやく受け入れてもらえた時には、すでに倒れてから3、4時間も経っていた。手術の甲斐もなく、キヨ子さんは3か月後に息を引き取った。

早川真さん
「地震って何だろうとか。“なんでうちの母親が死ななあかんねん”みたいなね。そんなことはずっと思ってて」
「“あの時、もう大阪連れていった方が良かったんじゃないか”“病院に診せた方がよかったんじゃないか”とか、“薬を僕がもらってきて渡していたら何とかならなかったか”とかね」
「僕自身の後悔かな。助けられた命だったんじゃないかと」

“過酷な避難環境が母の死を招いた”と考えた早川さんは、災害関連死への認定を神戸市に求めた。

災害関連死は、阪神・淡路大震災で初めて認められた。各自治体が因果関係があると判断すれば、公式の死者として扱われ、弔慰金が支給される。

この震災では900人あまりが認定された。しかし、早川さんの申請は却下。神戸市からは、理由も説明されなかった。

阪神・淡路大震災の死者数は6434人とされる。その中にキヨ子さんが含まれていないことに、早川さんは割り切れない思いをいまも抱いている。

早川真さん
「6434人が亡くなったのではなく、もっとたくさん人が震災で亡くなっているんですよね。“あの地震がなかったら、誰々は死なんかったのにな”というのは、当然みんな思っていると思います」
「だから、(6434人という)数字をニュース、報道でも繰り返し言うけど、“なんで6000何人って、毎回言うてるんや”と思う人が、何十人、何百人、何千人といるのではと思う」

「遠因死」として刻まれた318人の名前 「気持ちにも区切りがついた」
2000年に神戸市中心部の公園に設けられた追悼施設「慰霊と復興のモニュメント」。当初は、建物の倒壊などによる「直接死」と「災害関連死」の人々の名前のみが刻まれた。

しかし、2003年からは“震災の影響が少なからずあった”と遺族などが考える死を「遠因死」と定義づけ、銘板を掲げられるようになった。

モニュメントの運営を担う堀内正美さんは、そのきっかけについて、こう話す。

モニュメントの運営を担う 堀内正美さん
「震災死として認定されている方たちが、『お宅もですか』『うちはこうで…』とみんなが共感している時に、語れない方がいた。『いや、うちは病気をこじらせて…でも震災死ではないし…』と。でもどこか寂しそうな、そういう姿が各所で見られたので。でも僕たちにしてみれば一緒じゃない?だったらみんなが一緒になって、たった1枚のプレートを貼ることで、精神的に少しでも楽になるんだったらと」

母・キヨ子さんが災害関連死と認められなかった早川さんも、2007年にモニュメントに銘板を掲げた。

早川真さん
「(母が)震災で亡くなったと認められなかったのが、ある意味悔しい、悔しいというか、解せないというか、納得いかないというのがあったんですけど、名前を入れることで、自分の気持ちも区切りがついたかもしれない」
「僕が亡くなっても、名前は残るわけですからね。そこは良かったのかなと思う」

モニュメントには現在、318人が「遠因死」として名前を刻まれている。その中には、生後間もない赤ちゃんもいた。

生後45日でこの世を去った命、慣れない土地での老人ホーム 震災がもたらした遠因死
廣畑帆乃香ちゃん。不妊治療の末に授かった待望の赤ちゃんで、地震の6日前に産声を上げたが、心臓に病気を抱えていた。

地震で人工呼吸器が一時的に停止し、病状が悪化。生後わずか45日で、この世を去った。

廣畑帆乃香ちゃんの両親
「生前、保育器の中に手を入れて指を差し出すと、小さな手で優しく握り返してくれました。緊急車両に乗せてもらい、なきがらを抱いて自宅に帰りました。まだ温かかったのを覚えています」
「天国に召された我が子が短い間ではあっても、この世に存在していた証、生きていた証が欲しいと思いました」

粟田栄さんは、神戸市東灘区で被災。娘が命を落とした。80歳をすでに超え、パーキンソン病を患っていたが、近くに住む親族も被災し、関東の親族に引き取られた。慣れない土地で体はさらに弱り、最終的に横浜の老人ホームに入った。

孫 松岡京子さん
「本当にかわいそうだった」

孫 向山口美穂さん
「(自分も被災して)それどころじゃないというのを」

孫 松岡京子さん
「何も言えずにね」

姉 向山口美穂さん
「言い訳にしてたかな」

地震から9か月後、粟田さんは、慣れ親しんだ神戸に帰ることなく息を引き取った。

「祖母を神戸に帰したい」

孫姉妹は10年後、直接死の母の名前がすでにあるモニュメントに、「遠因死」として粟田さんの名前も刻んだ。

孫 向山口美穂さん
「“神戸に帰したい”。“おばあちゃんは神戸の人や”という、それだけですね」

孫 松岡京子さん
「お母さんと一緒にね、そばでね。入れてあげたかったよね」

遠因死は、法律で規定されているわけではない。

しかし、専門家は災害が残す深い爪痕を考える上で、遠因死という考え方が持つ意義は大きいと話す。

関西学院大学 人間福祉学部 池埜聡教授
「災害による被害者や被災者という概念は、固定されたものじゃないと思う。これからどんどん常に問い直されていくし、変わっていく」
「『遠因死』という、もう1つ外のサークルが広がることで、“個人の痛みを、社会の記憶として、私たち全体の記憶として一緒に引き継いでいこう”という。こういうメッセージがあると、すごく救われる」

「私が遠因死を招いた」母の自死に大きな後悔 悲劇を減らすため…経験を語る覚悟
阪神・淡路大震災の「遠因死」の中には、人生に自ら幕を引いた人が含まれている。

当時、国は災害関連死の対象に自死を含んでいなかった。そのため、震災の死者6434人に、自死した人は1人も入っていない。

神戸市東灘区で被災した山下准史さん(64)は当時、市内の小学校で教諭を務めていた。

地震で、自宅近くにあった実家が全壊。母の芙美子さんはなんとか脱出したものの、父の金宏さんが帰らぬ人となった。

山下准史さん
「(火葬場で)最後に棺を入れる時に、本当に自分もそのまま中に入っていこうとするんじゃないかというぐらい、泣きながら、叫びながら『お父さん!お父さん!』言いながら、棺にすがるようにしていた。『もうあかんよ』って言って止めましたね」
「『お父さんと一緒に逝きたかった』と、たまに口開くとそれしか言わなかったですね」

打ちひしがれる芙美子さんに、思わず強い言葉をかけてしまったことを山下さんはいまでも後悔している。

山下准史さん
「周りの人も気にして下さっているのに、『一緒に逝きたかった』みたいなことをずっと言うから、『そんなん言うな』と。『せっかく助かってんやから、もう言うな』と、つい言ってしまうぐらい」

――父の死の喪失感があった一方で、“母は生き残ってくれた”という思いはあった?
「強かったですね。遺体安置所にいる時間って、“自分らは生き残れたんやな…”というか、嬉しい気持ちでも何でもないけど、たくさんの遺体の中で過ごす時間が、“自分は(生き残れて)ラッキーだった”と感じる時間帯でもあったから、そこに一緒に母もいましたからね。当然同じ感覚かなという軽い気持ちもあった」
「『一緒に逝きたかった』というのを、もっと、もっと真面目に聞いとかないといけなかったなというのは、その後しばらくは私の中ではすごく大きな後悔になったので」

山下さんは神戸に残り、母・芙美子さんは大阪の親族の家に避難した。

しかし、地震から5か月が経った6月17日、芙美子さんは行方不明となる。翌日、山下さんは警察から、神戸で遺体が見つかったと告げられた。

芙美子さんは、大阪から神戸へ向かい、自ら命を絶っていた。

自責の念にかられた山下さんは教師として、学校で子どもたちにかける言葉にも苦悩するようになった。

山下准史さん
「簡単な言葉に直すと、『命を大切にせなあかんよね』みたいなことをやっぱり喋ってますよね。ところが、“そういうあんたは、大事な人の命を大切にしてなかった”と言われるかなというのがすごくあって、使わなくなりましたね。使えなくなりました。“私たちは震災で無事におれたんだから、命大切にしようね”みたいな言い方は、全くしなくなりましたね」

“このままでは自分が壊れる”と感じ、海外の日本人学校への教員派遣に応募。一度神戸を離れる決断をした。

派遣先のイランで長男が誕生し、喪失ばかりだった人生に光が差した。

帰国後、神戸の小学校に復帰し、震災について冷静に話せるようにはなったが、母・芙美子さんの最期が自死だったことだけはほとんど語ってこなかった。

それでも今、同じような悲劇を少しでも減らすために自らの経験を語る覚悟でいる。

山下准史さん
「自分に対して、逃げてきた部分があったので」
「“防げる遠因死を防ぐ”ことも含めた復旧・復興をみんなで考えていかないと、本当の意味で教訓が生きていかないのかなという気がしていて」
「私が遠因死を招いたと思っていますからね。そういうことは防いでいかないといけない、防いでいきたいな。防いでいっていただきたいなって」
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K2
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