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🌴たかし⛺
関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪を紹介して来た。次は滋賀県の歴史を紹介していきたい。(その2)
京阪石山坂本線に沿って、観光ルートとして紹介します。
京阪石山坂本線は、滋賀県大津(旧滋賀県)の瀬田川以西を通る線で、滋賀県の中でもかなりポテンシャルの高さを感じる地域だ。特に戦国時代、要衝の要として、重要とされた地域である。
●瀬田城(唐橋前駅から唐橋を渡って南へ徒歩約10分)
瀬田城は「急がば回れ」の語源ともなった瀬田橋(瀬田の唐橋)の防衛を目的に山岡氏によって築かれた平城で、膳所城や大津城、坂本城と並ぶ「琵琶湖の浮城」のひとつです。城主の山岡景隆は織田信長からの信頼が厚く、信長は上洛のたびに瀬田城を宿所としていました。1582年に起きた「本能寺の変」で信長を討った明智光秀は、安土城を占拠するため瀬田橋に軍を進めたが、その際に景隆は信長への忠義を守り、瀬田橋を焼き落とし明智光秀の軍を阻みました。これにより明智光秀はいったん兵を引かざるを得なくなり、天下の趨勢に大きな影響を与えています。現在は石碑だけが残っている。
●瀬田の唐橋(唐橋前駅から徒歩3分)
京都の宇治橋、山崎橋と並ぶ日本三大橋(日本三名橋・日本三古橋)の1つ。近江八景の1つ「瀬田の夕照(勢田夕照)」として知られる。東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。1889年(明治22年)まで、瀬田川に架かる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝かつ京都防衛上の重要地であり、古来「唐橋を制する者は天下を制す」といわれた。唐橋を舞台として繰り広げられた壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など、橋は昔からさまざまな戦乱に合ってきた。そのため、何度も焼き落されたとされるが、その度に当時の浅瀬の位置に橋が架けられた。また、『日本書紀』など数多くの文献にこの地が登場する。
●膳所城(膳所本町駅から琵琶湖側へ徒歩約5分)
1600年関ヶ原の戦いに勝利し名実共に天下人となった徳川家康は、翌1601年東海道の押さえとして、大津城を廃し、膳所崎に城を築かせた。
大津市街の東部に位置し、相模川河口付近にあった膳所崎と呼ばれる琵琶湖に突き出た土地に築かれた水城であり、日本三大湖城の一つに数えられ、また大津城、坂本城、瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」の一つである。陸続きの部分に三の丸を配し、二の丸・北の丸・本丸が琵琶湖に突出する梯郭式の縄張りであった。本丸には4重4階の天守が上げられ、水面に映える姿は里謡に「瀬田の唐橋、唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に浮かぶは膳所の城」と謡われていた。
●大津城(浜大津から琵琶湖側へ徒歩約3分)
1586~1587年豊臣秀吉は坂本城を廃城とし、浅野長政に命じて新たに築城された。その後、城主は増田長盛、新庄直頼と代わり、1595年に京極高次が城主となり6万石を与えられた。豊臣秀吉の時代に築かれた現在の浜大津周辺に広がっていた水城。城主の立極高次は1600年の関ヶ原の戦いで東軍につき、西軍の大勢に対して籠城した。関ヶ原の戦いの前日に開城したがこのため西軍の大軍が関ヶ原の戦場に間に合わず、勝利の一因となった。彦根城・膳所城により廃城となる。
◯近江神宮(近江神宮前駅から徒歩6分)
667年に同天皇が飛鳥から遷都した近江大津宮の所在地と推定されている。1908年(明治41年)の大津市制施行10周年を契機として、天智天皇をゆかりの地である大津宮跡に祀ろうという運動が起こり、1938年(昭和13年)に昭和天皇の勅旨によって官幣大社「近江神宮」の創建が決定、直ちに社殿の造営が始められ、1940年(昭和15年)11月7日に鎮座した。又、近江神宮は、百人一首の最初の歌を詠んだ天智天皇を祀ることから、「かるたの聖地」とも呼ばれている。特に、競技かるたの日本一を決める「名人位・クイーン位決定戦」が毎年1月に行われることで知られている。競技かるたを題材にした人気漫画・アニメ「ちはやふる」の舞台としても知られている。
●近江大津宮錦織遺跡(近江神宮前駅 徒歩1分)
西暦663年、日本は百済を救援するために挑戦半島に出兵します。
しかし、日本軍は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗し、日本は唐軍にいつ攻め入られるかという緊迫した状況を迎えます。
その情勢の下、西暦667年天智天皇によって飛鳥から近江への遷都が行われました。この近江に営まれた宮が大津宮です。
国の中心となった大津宮では、日本初の法令である「近江令」や全国にわたる最初の戸籍「庚午年籍」がつくられたほか、漏刻(水時計)を用いた時刻制度なども制定されました。
西暦671年に天智天皇が死去すると、翌年、皇位継承をめぐって大友皇子と大海人皇子との間に壬申の乱が起こります。この戦いに勝利した大海人皇子は再び飛鳥へ遷都したことから、ここ大津に都が置かれた期間はわずか5年でした。
大津宮の所在は長い間不明でしたが、昭和49年に錦織地区で実施された発掘調査で大津宮の建物の一部とみられる遺構が発見され、その所在が明らかになりました。
以降、周辺地域で発掘調査が実施され、内裏正殿、内裏南門、回廊、堀などの遺構が確認されるなど次第に大津宮の姿が明らかになりつつあります。
現在地は遺跡の北端に隣接しており、大津市が平成15年に全国で10番目となる古都保存法に基づく「古都」の指定を受けたことを記念し、大津宮を紹介するシンボル緑地として整備された。
●宇佐山城(近江神宮駅から徒歩約50分)
朝倉義景・浅井長政の南進に備えるべく、琵琶湖と北国街道の押さえを意図する織田信長に命じられた森可成によって、近江滋賀郡に築かれた。宇佐山城は、信長が安土城より以前に近江で最初に石垣による築城を行った貴重な城郭である。石垣の存在から宇佐山城は単なる陣城ではなく、恒久性を志向したものと考えられている。織田信長が大津市支配の要としていた築いた山城。 石垣を使った堅固な城で、 1570年に浅井・朝倉が攻めてきたのを辛うじて撃退した。後に坂本城が築かれて廃城となった。城跡への山道はかなりきつい。
●壺笠山城(穴太の山奥)
近江坂本・穴太地区の西にそびえる比叡山系400m超の街道を守るために築かれていた山城。1570年志賀の陣で、浅井・朝倉家が比叡山の後援を得て立て籠もった山城。城跡の山頂は古代の古墳でもある。城跡は穴太駅西にそびえる山に眠っている。1570年野田・福島の戦いで、摂津に侵攻した織田軍に対し、比叡山延暦寺と手を結んだ浅井朝倉軍は背後を突く形で京に迫る。この際の戦いで南の宇佐山城主・森長可が討死している。急ぎ引き返してきた織田軍はこの地で浅井朝倉軍と対峙、その際 浅井朝倉方が陣取った場所として「壺笠山」が記されている。遺構は白鳥越えと呼ばれる京〜坂本を結ぶ街道沿いの山頂に円形の主郭が築かれ、周囲にも帯曲輪を巡らせ、虎口や外周石垣などを携えた技巧的な山城となっている。
●志賀の陣
1570年9月16日から12月17日にかけて発生した、織田信長と浅井長政、朝倉義景、比叡山延暦寺の戦い。1570年7月30日近江国浅井郡姉川河原で、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の間で行われた合戦である姉川の戦いの後、織田信長が大阪へ出陣している(三好三人衆との野田・福島の戦い)隙をついて、浅井・朝倉軍が湖西から大津へと進出し、宇佐山城を攻めてきた。信長は急ぎ取って返して宇佐山に本陣を置き、浅井・朝倉軍は壺笠山に陣を敷いて対陣した。一方、信長が転進してきたことを知った浅井・朝倉勢は比叡山へ後退した。浅井・朝倉軍は比叡山延暦寺の支援のもと、比叡山に籠城することになった。
9月24日、信長は逢坂を越え、坂本まで来て比叡山を包囲した。信長は比叡山延暦寺に対して、「織田方につくならば織田領の荘園を回復するが、それができないなら中立を保ってほしい。もし浅井・朝倉方につくならば焼き討ちにする」と通告したが、延暦寺からの返事はなかった。あまり知られていない戦いだが、対陣は数ヶ月に及び、その間に伊勢長島で一揆が起こるなど信長最大のピンチともいわれる。 結局、将軍や朝廷の調停で和を結び、双方陣を撤収した。
●野田・福島の戦い
1570年8月26日から9月23日に行われた戦い。この後10年にも亘る石山合戦の端緒といえる戦いである。1568年織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を征夷大将軍に就けることに成功した。これにより、室町幕府は一時的に再興されることになった。将軍の後見人という立場となった信長は、かねてより良好な関係ではなかった朝倉義景との対立を深め、1570年4月20日に義景の領国たる越前へ侵攻したが、盟友・義弟の浅井長政が朝倉方についたことにより撤退(金ヶ崎の戦い)。約2ヶ月後の6月28日に発生した姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍に打撃を与えることに成功した。一方、足利義昭とかねてより敵対していた三好三人衆は8月20日になって摂津の野田城、福島城に拠って挙兵した。信長はこの挙兵に対して天王寺に出陣し、付け城を築くと共に香西佳清と三好為三を寝返らせて有利に戦いを進めていた。しかし、その途中の9月14日になって石山本願寺法主顕如が蜂起したことにより、戦況は予断を許さなくなり、信長は摂津戦線に釘付けにされることになった。
●坂本城(松の馬場駅から徒歩約15分)
1571年比叡山焼き討ちの後、光秀に近江国滋賀郡が与えられ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして築城した。宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』では、安土城につぐ天下第二の城と評されるほどの豪壮華麗なものであった。その後、光秀は坂本城を拠点に近江国の平定を目指し、湖南はほぼ手中に収め、黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めていた。1582年6月2日、光秀は中国攻めには向かわず本能寺の信長軍を急襲し信長を自害させ、次いで二条新御所を攻城し、信長の嫡男・信忠を自害させた(本能寺の変)。だが、同年6月13日山崎の戦いで敗れた光秀は一旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言われている。1586年豊臣秀吉の命を受けた浅野長政が大津城を築城して居城を移したことにより廃城になり、石垣等の資材は大津城築城に使用された為、遺構はほとんど残っていない。
●史跡 穴太衆積みの石垣(坂本比叡山口から徒歩9分)
「穴大衆積み」は、自然の石を加工せずに積み上げるものです。 石の面や角の使い方 大きな石と小さな石の組み合わせに特色を持ち、また奥行の深い積み方で、コーナーの美しさとその堅固さはりっぱなものです。また、積み上げられた石垣の表面は幾何学的な模様を作り出しています。
これらの石垣を積んだ石工達は、穴太衆と呼ばれ、戦国時代にはこの穴太衆達が全国を飛び回り、城の石垣作りに活躍した。
●比叡山延暦寺(坂本比叡山口から坂本ケーブル(9分)を使って、約33分)
比叡山延暦寺とは、延暦7年(788年)に最澄が開創した、1,200年以上の歴史を持つ天台宗の総本山です。国宝的人材育成の学問と修行の道場として、法然・親鸞などの日本仏教各宗各派の名僧を多数輩出。日本仏教の母山と呼ばれている。さらにその歴史と伝統が高い評価を受け、ユネスコ世界文化遺産に認定され、滋賀・京都を代表する地となる。
●比叡山焼き討ち
1570年志賀の陣の戦いにおいて信長の通告を無視して浅井・朝倉方についたことが1571年翌年の比叡山焼き討ちにつながることになる。
1571年9月30日 比叡山延暦寺を織田信長の軍が攻めた戦い。この戦いで信長軍は延暦寺の伽藍を焼き払い、僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われている。一方、近年の発掘調査から、施設の多くはこれ以前に廃絶していた可能性が指摘されている。










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