古怒田は身体を他者性として読むことによって、わたしに呼びかける〈身体〉(ニュアンスは違えど熊野純彦も『移ろいゆく者への視線』で身体を原初的な他者としてる)として定立し、そこと〈わたし〉のズレを指摘したほうがいいんじゃないのか。〈わたし〉と〈身体〉の間にも倫理を開く視座になると思うんだけど。トランスジェンダーの話にどうもってけるかは、しらね。