できます。ただ、難解な言葉を用いた哲学を蔑ろにはできません。もちろん、皆さんのおっしゃる通り、哲学はあらゆる人・社会にひらかれているべきです。哲学者の永井玲衣さんも『水中の哲学者たち』という本のなかで、難解な言葉で哲学することを「綺麗な花火を遠くから見ているよう」だ、とします。永井さんも、難解な哲学の魅力を認めるものの、対話のなかで身近な喪失や気づき等を掬い取りたい、としています。それでも、哲学は積み重ねの学問なのです。デリダがフッサールを徹底的に解読して、哲学を進めたように、哲学は歴史の縦糸によっても紡がれていきます。また、難解な言い回しと言われることの多い、詩的言語のアイロニカルでアナロジカルな実践の中で、世界の認識はずらされ、動き、絶えず思考/試行されるなかで深まりをみせます。だから、市井の〈哲学〉が横糸ならば、学問としての〈哲学〉は縦糸なのであって、後者の深まりがなくてはならない、と確信しています。