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罪も徳も実在ではない
どちらも在るがままではない
それらは活動(つまり幻想)である
そして不自然(つまり苦しみ)な状態である
活動という幻想を信じている者(実在しない行為者、個)だけが
その行為(カルマ)の結果という想像の天国状態や地獄状態をさまよう
空想とは実在ではない不自然な状態である
好奇でありつまるところ苦しみである
よい好奇もわるい好奇もない
その正体はどちらも
在るがままではなく奇妙を信じること(闇)なのであるから
つまりは
闇の状態ということである
実在は善にも悪にも汚されない
活動(そして善や悪という虚偽のレベル作りもふくめ)
は実在せず
実在しない行為者、個によるまったくの幻想なのである
ナチュラルスピリットは在るがまま
であり、
その源により個が空想された
その個に主体化催眠をかけたとき
実在していない主体という行為者を信じること
がはじまる
彼は意識をもち
様々な好奇心(よい好奇心わるい好奇心という区別さえつくり、さばきさえする)
のシナリオを計画し
魂に分裂し
それらを上演するのだ
これらはすべて不自然(苦しみ)の行為者という幻想の世界なのである
ナチュラルスピリットによる好奇から
の空想(個)は
実在(ナチュラルスピリット)をこえることはできなかった
その不自然なだけの空想(個)と催眠(主体化)を終焉させることだろう
それは神による試み(探求)の終焉である
#ノンデュアリティ
#非二元
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
#スピリチュアル
NAC
すべてひとつで平等(ナチュラルスピリット)
そして試みに
空想された「個」
「私」として主体化解離催眠がおきると
それを維持するために(とけないように)
「私」は「他を設定する」
これを相対依存性(仏教では相依性という)
これをイエスの奇跡講座 ACIMの関連本の説明では
空想された個(分離ていう発想)
のあとの
最初の分裂(幻想の意識の発生)
といい、
この最初の分裂
の
象徴が、
この世界(すべての分裂)
だと説明しています
仏教でも、
自我は実在せず、
相依性(関係性)
は空(くう)であるといいます
私は意識をもち、
魂と計画をもち
身体と外部世界
として輪廻する
これも空(幻想)なのです
私はあの世(極楽浄土)へ
私は悟りへ
という目的として、何らかの努力をします
私は信じています
これも空(相依性)なのです
しかし
幻想ではない
真の実在は 無条件ひとつ のままであり
在るがままのいまのとおりです
そして
実在の量は
空想エネルギーをふくめたものですから
いまこのとおり
のことは
すべて癒されるオートマチックな空想ということになります^_^
#ノンデュアリティ
#非二元
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
#スピリチュアル
NAC
による
特別性の空想からの自我催眠(I AM)や
魂と対象世界(多次元の心身)という
これら幻の性質とは
好奇であり苦しみである
つまり
不自然である
空想という幻には、
原因があり、無常であり、遍満せず、運動であり、個であり、自らの原因(いつも在るナチュラルスピリット)に依存し、部分であり、還滅し、他律的である
といえる
しかし
さらなる自我催眠(I AM)は
ナチュラルスピリットからの解離信念と成り、
そこに自律という幻想をもたらす
そして自我(偽りの神)は
さらに深刻化した
不自然な世界を誤創造(想像)していくのである
これが
いつも在るナチュラルスピリット
からの試みである
オートマチック顕現であり
いつも在るナチュラルスピリットによる
愚かな試みは、
いつもある精神統一というナチュラルスピリットの
自然な癒しにより
終焉するのである
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
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真の実在(ナチュラル)は、それ自体としていつもすでにただ在る
それを得るために行為を必要としない
行為は幻想である
真実はその本性として、何かによって得られるものではない
いつもただ在る
浄化が必要なのは不自然な幻想であり
、幻想のすべてがそうである
幻想の発生も浄化も真の実在によるものである
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
NAC
実在は
経験、体験ではない
在るがままであり
その反映が平安である
最後の人生では
行為は起こりつづけるようにみえるが、
みずからは癒しにより
無為にとどまるようになる
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
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#ノンデュアリティ
#非二元
#ナチュラルノンデュアリティ
#スピリチュアル
#禅

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ノンデュアリティとは
や
真の自己とは
についてはじまる説明は
すべて幻想である
なぜなら
自己とは
経験的に知り得ないものだからである
主体そして客体とはならない
自己とは とは成らないし
自己とは〜である とも成らない
語りえぬものであるゆえに
沈黙(シンプル ナチュラル)
である
自己とは、
として立てられる形而上学的なこと
は
幻想である
形而下も同じである
語りえぬもの(はじめに言葉はなかりき 非活動)であるものを
活動(幻想)によって示すようなことはほんらいできないのである
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
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実在は常に真実である
実在は無条件に在るということである
それはただ在る
ただ在ることに 因も縁も果もない
ノンデュアリティ(非二元)である
因や縁や果はそれぞれが異なることを意味している
それぞれが異なるものはそのいずれもが幻想である
実在はそれらではない
神も創造も神の被造物もないのである
ただし
存在(としての神)からは創造ではなく空想が生まれることはありうる
ではこの意味で
存在を原因としてみよう
この意味から空想されたものは結果といえるだろう
存在が因で空想力が縁で空想されたものが結果である
空想された結果は客体である
さらにもしその空想されたものに
マインド(偽の架空の自律 自己原因)という主体化催眠がなされたならば
存在(ナチュラル)に二重の努力(空想 不自然な状態)がおきていることになる
そして最初に空想されたものは まだ自律性がないゆえに
主体化催眠は
存在(としての神)が催眠をかけたのだといえるだろう
したがってそれを解放して癒せるのも存在(神)だけである
そして
主体化催眠がなされた状態においては
その自律の妄想の中においても、対象意識(偽りの虚空)がその中において生じることになるのである
そして
その架空の対象意識(虚空)
にはシナリオが描かれる
孤独な囚人があたかも妄想のスクリーンをつくってたくさんの物語を描くように
そして主体化催眠であるI AMは
自らを分裂妄想させて魂となりそれを経験するのである
在るがままではない 空想すべては不自然な状態であり
そのすべてが苦しみである(幸せと不幸はじつは 同じ奇妙という苦しみの幻想なのである)
神の無邪気な不自然な試みは
神が終焉させることになる
そして妄想はおわり永遠平和が在る
原初の永遠平和との唯一のちがいは
神は空想は無意味であると悟ったということであり 二度と繰り返さないという 神の悟りである
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
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無明とは
基盤ではない状態のことである
(実在である基盤はナチュラルスピリットである)
無明のあと縁起がおきてゆくことになる
したがって
無明は縁起をしらないこと
「ではない」
(この説は矛盾している)
このまちがった説をとく仏教のある一派は
あろうことか次のような教えを説く
もはや順縁ではなく完全に相依存する(相依性)の諸法の縁起そのものが仏であると説く
つまりその統一状態がニルヴァーナ(真の命)
と説くのだ
島根県出身の仏教学者である中村元さんは
「人類の知的遺産 13 ナーガルージュナ」
(講談社)
の著書のなかで、ナーガルージュナの説をそのようにみている
これはおかしいというのがわたくしの感想である
以前かいたように
龍樹のあとの時代の大乗経である華厳経は
一即一切が仏と説いているとかきました
わたくしは以前に一即一切の生命活動は
大自我(I AM)からの投影活動という偽りの生命活動だとのべています
中村元さんはナーガルージュナのニルヴァーナ説と華厳経のニルヴァーナ説は同じである
とその本にかいています
この点からも
ナーガルージュナの縁起イコールニルヴァーナ説というのは
誤りである
というのがわたくしの感想です
#ノンデュアリティ
#非二元
#ナチュラルノンデュアリティ
#スピリチュアル
#仏教
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#ノンデュアリティ
#非二元
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
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神(ナチュラル)からの分離の現実化
すなわち
リアルにみえる不自然な夢の活動は
実際にはおきていないように感じる
これが
ナチュラルノンデュアリティの癒しの反映
である
つまり
不自然な幻想の投影である
多次元の世界の活動は
すべて
実際にはおきてはいなかったのである
実在は すでに そして常に 在るからである
つまり
人生はすべて幻想である
ほんとうにはおきていない活動(幻想)である
健康?不健康?
幸せ?不幸せ?
愛?憎しみ?
快楽?不快?
長命や延命治療? 短命?
どんな状態であろうと
例外なく活動している変化の状態は
実際にはおきていない
のであり
無意味な旅(夢の活動)
である
変化 や 生と死とまた生へと
そこに意味(実在性)があるというごまかしがあるかぎりは
催眠の状態にある
ということである
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
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このいしきのなかでさらにそれがなんにみえようとである
#スピリチュアル
#ノンデュアリティ
#非二元
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
NAC
(文章編)
先日は図にして形而上学をかきましたが
今回は文章でかきます
私たちは日常においても
「自分」が見たままの状況(投影 五感)
を事実(真実)だととらえ、それらに対する自分の反応(行動、考え、感情)も、ほとんど無意識(大自我の反映としての魂としての「自分」から)のうちに行っています
これが内側から外側をみているという信念です
しかし
ナチュラルにおいては
ただ在る
からの空想のいやしが延長するのです
アコースインミラクルズの場合は
メソッドですが
似たような表現として
今この瞬間(すでにただ在る)のことを「聖なる瞬間」とよび
空想のいやし(つまり心と投影のいやし)
のことを
五感そのままではなく
いやされた「真の知覚」とよびます
人間関係のいやしについては
特別の愛、憎悪の関係ではなく
「聖なる関係」とよんでいます
それらは
在るがままからのナチュラルさにより
空想努力の世界がいやされていることを表現している状態なのです
そして、癒しが完了した最後の人生については
実在である実相を反映した意味での
実相世界と
よんでいるのです
内側を変えることにより外側をかえる
という真の意味は
じつは
ポジティブ心理や
聖なる心理
によるメソッドではありません
それは
今ここによるノーマインド的ないやしなのです
ポジティブメソッドはいまだ自我メソッドであり
聖なるメソッドもまた、いまだ心がつかんでいる概念的メソッドです
在る意味では
内側も外側も幻想であり(変化の状態にすぎません)
どうしても言葉で説明するなら
内側(心)よりも内側にある、変わらない在る
が
実在とよべるかもしれませんが
それはじつは
ナチュラル(すでにただ在る)という
無条件、無努力の意味なのです
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
#アコースインミラクルズ
#今ここ
NAC
最新のすばらしいノンデュアリティ動画(ほかの動画をぜんぶみてないからチャンネル推薦までしてるわけではないですが)
でダイレクトな説明をしてくださっておられるので
それでじゅうぶんかもしれませんが
ちなみに
今よんでる体外離脱系の本は
スピ進化系というながいストーリーの話なので
いまいちピンときません
(ブルースモーエンさんの死後探索3、4の本もしかりですね)
なにが違和感を感じるかというと
アセンションによる
ネガポジ統合とか、男女性統合とか
受け入れる あるがまま
というのは
私、他(ここでの意味は 「他の私」)の統合に
すぎず
そのようなエネルギーが融合しても
活動(特別性エネルギー)にすぎません
ということなのです
つまり創造エネルギー(シャクティ)ですね
正確にいうと誤創造(つまり想像、マーヤーです)
つまりIAM(大自我)
です
ということなのです
実在のなかのワクワクというサブ性質
からおきている空想なのです
真実のメインである不変のノンデュアリティは
何も変わっていない気づきであり
すでにただ在るものなのです
よくインドでは一元論や二元論が語られていますが
どちらも間違いかもしれませんね^_^
一元論だけからは幻想の発生を説明できません
二元論では、分裂症かもしれませんよね
ほんとうは
全能元
なのです^_^
そこには ただ在るというメインのほかに
実在にワクワクのサブ性質も
実在としてあるのです
ワクワク性質であるその活用の結果(空想世界)が
じつはたいした意味がなく疲れることであったならば(活動性だから)
べつにやらなくてよいのです
さいしょの試み
(空想された個)
の時点で
すでに無意味な努力だとわかるわけだから
そのあとの自我催眠や
投影という
バカげた努力や
いちいちのそのいやし
など
はっきりいえば愚かでしかありません
だから
自然が実在する
努力は無意味で
疲れるだけである
という神の試みのあとの反省です
したがって
ゆっくりと目覚める必要などなくて
即時の目覚め、救済を
前代未聞のメッセージとして発信しています
そして二度とくだらない夢をみないことです
これが神の永遠的平和
なのです
しかし
わたくしにあらわれた神の正気とおもわれるメッセージ
は
強制のメッセージではなく
自由なので
わたくしはたんにノンデュアリティの感想として
シェア(メッセージ)として
かいているわけです
ノンデュアリティの感想はそれぞれですが
わたくしに湧いた感想はそうでした
ということなのであります^_^
なので感想にたいして議論はいりません
こういったネットでシェアがあるなら
ごしぶんの感想を
ただかいてくださいませ
ということなのです^_^
ほんじゃまたです
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
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#非二元
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ

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わたくしの形而上学仮説(ナチュラルノンデュアリティ)においては
アコースインミラクルズともちがいますので
無条件、無努力の、ただ在る(ナチュラル)
が
実在であり
不自然な感情(空想努力)として、
好奇であり苦しみでもある感情(自我そのもの 大自我)という試みがあり
その
様々なバージョンの投影が日常生活レベルにあるとしています
(愛や欲、憎しみ)
#ノンデュアリティ
#非二元
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
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NAC
幻想の世界
と
実在の世界
の
ちがいについて語る
幻想の世界は
実在の世界
からの誤用(空想エネルギー)である
幻想の世界は、活動の世界(欲、愛であり憎しみ)
という不自然であり
実在の世界は、非活動(不変、普遍、不動)
なのである
幻想の世界はアンナチュラルであり
実在の世界はナチュラルである
幻想の世界は誤創造であり
実在の世界はすでにただ在る
幻想の世界は自我実現であり
実在の世界は在るがままである
幻想の世界は、どこか、いつか、であり
実在の世界は、ただ今ここである
幻想の世界は、変わる気づきであり
実在の世界は、変わらない気づきである
幻想の世界は努力であり
実在の世界は無努力である
幻想の世界は条件であり
実在の世界は無条件なのである
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
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自然が実在する
努力は無意味で
疲れるだけである
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