#超語る #ひとりごちる #なげぇ あまりに孤独というのは医学的にも人を蝕むらしいって、カズレーザーの番組で言うてた。かつて孤独だと叫んだ僕には、今思ってもたしかに、誰もいなかった。「誰か」と居た記憶があると、余計そうなるのかもしれないなと思った。確かに僕は、幼少期から誰かがいつもいた。トラウマのひとつふたつは発生したものの、誰かはいた。喜怒哀楽の「怒」「哀」しかない人選でも、誰かはいた。もちろん「喜」「楽」の時だってあったけど。それなのに僕は孤独だと思った事があった。SNSも急速に発展し表現は形を変えてゆき、誰しも辛い心情を吐露できる現代においてなお、孤独だと感じるのは何故か。僕はこう考えた。ひとりで生きていけるように生活してる。他者に全ての判断を委ねないようにする。ひとりで決めきれないことを相談してる。これらをひとつずつやった時、寂しい孤独ではない、生きてるひとり、になれた気がした。そんなこと言っても僕は多分、完全に孤独に強くはなれないかもしれない。と、ここまで考えてなんなんだけど、なるようにしかならない、とも思う。その時の感情はどうにも操作しがたいもの。その時その時で後悔したり歓喜するだけで。一番近くにいる誰かを通して自分を省みる。そんなのだいぶ達観してから意識すること。自分のことをどうにでもしてくれるのは自分というとこに、気づいてもなお感じる孤独の正体を、今後もたまに追求したい。_(:3 」∠)_