たとえば、私が真剣に何かを語り始めたとき。相手が少しだけ引いたような顔をする。あ、この空気、またか……って思う。私は怒ってるわけじゃない。ただ、脳が本気になってるだけ。でも、そういうときに限って「怒ってる?」って言われる。(いや、実際には「あの時怒ってた?」だな。)実際のところ私は、「これ、大事」とか「深掘りたい」と思った瞬間、思考が加速して、身体も表情も置いてけぼりになる。怒ってるんじゃなくて、むしろ「脳みそフル稼働中」の顔。葬式で笑えないのと同じで、大事な話だから、私は真顔になる。そして、その沈黙は、決して拒絶じゃない。ただ、言葉の精度を上げるための“間”なのだ。でも、多くの人にとっては、会話はキャッチボールというより「やさしい水の流れ」であってほしいのかもしれない。私はその中に、いきなり重たい石を投げ込んでしまうことがある。内容が熱くなればなるほど、私はその石を精密に削りたくなる。気づけば語気が強くなって、問いの射程が深くなる。でもそれは、相手を攻撃しているんじゃなくて、ただ「もっと深くまで見てみたい」だけなんだ。「なぜ、それがそうなのか」「本当にそう言い切れるのか」私は問いたいのだ。それが、相手にとっては“詰められている”と感じられてしまうのだとしても。私には、自分の中の熱がうまく伝わらないもどかしさがある。私の“熱”は静かだ。内側で燃えて、外に出る頃には冷たくなっている。でも私は、その冷たく見える思考の中に、ものすごく情熱を込めている。そして私は、時々、勢いが出る。考えが動き始めると、声が強くなり、言葉が早くなり、視線が定まる。自分の中の集中力に駆動されて話している私の「集中」のあり様は、相手に「怒りの圧」として受け取らせてしまうことがあるようだ。そのたびに、ふっと距離が生まれる。私は、誰かを言い負かしたいわけじゃない。ただ、ちゃんと考えたいだけ。でも、誠実であるために本気を出せば出すほど、“対話”から少しずつ遠ざかってしまうこの皮肉に、何度も突き当たってきた。ほんとは、うまく伝わらなくて、もどかしい。だけど私は、この脳みその熱で話してる時、実は楽しい。話に乗ってきてくれ(笑)私はINTJの本気、すきだけどな。#議論したい