ドットソンの中でずっと気になったのは、聞かれる以前に言及の必要性を排除される不正義前提として足りてるという理解なのか、言及の必要性がないと恣意的判断がされていることなのか、ここはとてもややこしく感じた#誤認で低く評価されてるではないみたいでフリッカーとは違う#認識論的に徳に反して不正義ってやつは無限に広がりすぎる気がする#この理解であってるかはわからんけど