人間のもつ基本的な感情の四つを表すことばに「喜怒哀楽」があるけれど、どうしても違和感を覚える。たとえば三大欲求は、生命維持の二つと、種の存続の一つで構成されている。つまり、同列に並べられてはいるが、内実は別カテゴリのものが混在している。それと同じ違和感だ。「嬉しいから喜ぶ」「嫌だから怒る」――そう考えると、「喜ぶ」や「怒る」は感情そのものではなく、感情に伴ってあらわれる“行動”や“表出”ではないだろうか。しかも「喜」と「楽」は内容的に重なっており、感情を言葉で表すなら、「哀」よりも「悲」のほうがしっくりくる。怒に関しては、もはや論外だ。こうして分解していくと、感情の根源はもっとずっとシンプルなものに思えてくる。つまり、人が感じるものは「快」と「不快」の二元に収束するのではないか。喜びも楽しさも、怒りも悲しさも――すべては快・不快という根源的な感覚から生まれ、そこから心や身体が動き、行動や表現として形をとるのだ。それなのに、なぜこの「喜怒哀楽」という古語が、現代においても感情の代名詞として定着しているのだろう。三大欲求も、喜怒哀楽等の辞書的意味も、一つの時代・社会の価値観が透けてみえる。だから、感情の実感に近い言葉を探すなら、むしろ「嬉・恐・悲・驚」のほうが、よほど“感情”としての実感に近い気がする。#内面観察#感情の根っこ#社会の価値観#概念を疑う#ことばりうむの星