ゼレドの川を渡る意味~約束の地への「本当の入り口」はどこにあるのか?聖書を読んでいると、細かい地理の違いに「なぜ?」と感じることがありますよね。先日、読者の方からご指摘をいただき、僕自身もあらためて学び直したことがあります。実は、約束の地への境界には重要な二つの川があるんです。ヨルダン川とゼレド川、その決定的な違い確かに、一般的に「約束の地に入る」と言えば、ヨルダン川を渡る場面を思い浮かべます。ヨシュア記のクライマックスですからね。しかし申命記2章13節を見ると、主がこう言われています。「さあ、立って、ゼレドの川を渡れ。わたしたちはゼレドの川を渡った。」この「ゼレドの川」を渡ることが、38年ぶりの決定的な一歩だったのです。ここで、僕は地図を広げてみました。すると、ゼレド川は死海の東側、現在のヨルダン国内を流れる川で、約束の地の東の境界線の一つでした。一方、ヨルダン川はその西側、カナンの地そのものへの入り口です。つまり、ゼレド川を渡るということは、「約束の地の境界地域に入ること」であり、そこからさらに進んでヨルダン川を渡り、「カナンの地そのものに入ること」が次の段階だったのです。ヘブライ語が示す「境界」の重み申命記2章13節の「渡れ」という命令のヘブライ語は「イブルー」(עִבְרוּ)です。これは「通過する」「向こう側へ行く」という意味で、単なる地理的な移動以上の、象徴的な意味合いを持っています。38年の荒野の旅を終え、ついに「約束の地の境界」であるゼレド川を渡る。これは、単なる移動ではなく、「神の約束の領域へ足を踏み入れること」を意味する決定的な瞬間でした。僕はここに、深い象徴性を見いださずにはいられませんでした。私たちの信仰の歩みにも、「ゼレドの川」のような境界線があるのではないでしょうか。完全な約束の成就(ヨルダン川渡渉)の前段階として、まず「約束の領域の入口」(ゼレド川渡渉)に立つ時がくる。その一歩一歩が、神様の計り知れない導きの中にあるのだと感じます。「あの川」を渡る勇気申命記2章14節には、こう続きます。「カデシュ・バルネアを出てから、ゼレドの川を渡るまでに、三十八年かかって、そのときまでに、宿営のうちの戦士たちがことごとく滅びうせた」38年かかって、ようやくゼレドの川にたどり着く。それだけの時間を必要とするほどの、信仰の「準備期間」があったのです。古い世代の戦士たちが滅び、新しい世代が育ち、いよいよ約束の地の境界を目の前にする。このゼレドの川を渡る決断は、ヨルダン川を渡るための「予行演習」であり、「信仰の宣言」でもあったのだと思います。私たちの人生にも、「ゼレドの川」と呼べるような境界線があるかもしれません。完全な約束の成就の前に、まずその入口に立つことを求められる時。そこで必要なのは、38年の待ち時間を経て与えられた「今、一歩を踏み出す勇気」ではないでしょうか。このモーセ五書を描き、学びながら、僕自身も多くの「ゼレドの川」と向き合っています。一歩を踏み出すための信仰が、少しずつ与えられていくのを感じます。もしこの荒野の旅路に興味を持たれたら、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めるマンガ版で、この深い旅路を共に追体験できたらと思います。#モーセ五書マンガ#申命記の地理#ゼレドの川