ありがとうの循環 — 食卓の一言が神と隣人をつなぐこんにちは、石川尚寛です。先日、友人たちと食卓を囲んでいるとき、ふと口にした「ありがとう」が場の空気を柔らかくしたのを覚えています。特別な出来事は何もなくて、ただ同じものを分け合ったというその事実だけで心が満たされる瞬間がありました。そのとき、なぜか申命記の一節が思い浮かんで、ページをめくってみたくなりました。今回向き合ったのは申命記8章10節です。ヘブライ語の原文はこう書かれています。「וְכִי־תֹאכַל וְשָׂבָעְתָּ וּבֵרַכְתָּ אֶת־יְהוָה אֱלֹהֶיךָ עַל־הָאָרֶץ הַטֹּבָה׃」。直訳すれば「あなたが食べて満ち足りたとき、良き地のことであなたの神、主を祝福しなさい」となります。注目したいのは動詞 בָּרַךְ(バラフ)です。この語は単なる「感謝する」という意味に留まらず、「祝福する」「手を差し伸べる」「良きことを言い表す」といった幅のある働きを持ち、言葉が内側からの応答であり、関係を確認する行為であることを示しています。僕がこの節から受け取った気づきの一つは、感謝の向きが神で終わらないということです。申命記は共同体の生活を語る書でもあり、食卓にある恵みは土を耕した人、穀物を運んだ人、料理してくれた人など多くの手によってもたらされています。神への「ありがとう」はまず恵みの源を見上げる行為ですが、同時にその恵みを自分の中で受け止め、次に隣人へと返していく流れをつくります。バラフが含む「祝福する」というニュアンスは、受け取ったものを祝福として留めず、何らかのかたちで返す働きを含んでいると感じました。具体的に言うと、僕が食事の場で「ありがとう」と言うと、その一言は作ってくれた人に届きます。けれど言葉だけで終わらせると循環は止まってしまう。感謝が行動に移るとき、例えば次に会ったときに手伝う、材料を分ける、小さな気遣いを見せる、といった形で恵みが共同体の中を巡り続けます。申命記の全体的な文脈が「忘れないこと」を強く促すように、感謝は恵みの由来を思い起こす記憶の行為でもあります。神を祝福することで、僕はその恵みがどこから来たのかという物語を再確認し、その物語が隣人への具体的な配慮へと翻訳されていくのです。このことを考えると、感謝は単なる礼儀や義務ではなく、生活を貫く倫理の一部のように思えてきます。小さな「ありがとう」が、僕の内側を整え、次にするべき行動を静かに示してくれる。だから僕は、感謝を習慣にしたいと思うし、その習慣が神と隣人をつなぐ道になると信じています。ただ一つ問いを残すなら、次にあなたが「ありがとう」と言うとき、その言葉は誰に届き、どんな行動につながるだろうかということです。僕はこれからも食卓の些細な瞬間を大切にして、神と隣人への感謝を日常の行いで返していきたいです。気になった方は、ぜひAmazonで『創世記 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。#モーセ五書マンガ #申命記からはじめよう #無料で読める聖書