共感で繋がるSNS
人気
なお

なお

「損をしたくない」と思ってしまう、そんな僕の心に響いた言葉

こんにちは、石川尚寛です。
急に寒くなってきましたが、みなさん風邪など引かれていませんか。僕は先日、友人のためにちょっとしたプレゼントを選んでいたときのことです。素敵なものを見つけて「これだ!」と思った瞬間に、ふと値札を見てしまい、一瞬だけ手が止まってしまったんです。

「あ、予算より少し高いな」
そう思った途端、さっきまでの「喜んでもらいたい」という純粋な気持ちの横に、「自分の財布が痛む」という計算高い自分が顔を出しました。結局そのプレゼントを買ったのですが、帰り道、あの一瞬の躊躇(ちゅうちょ)がなんだか恥ずかしくて、少し落ち込んでしまったんです。

人に何かを与えるとき、どうしても「減る」とか「損をする」と考えてしまう。そんな自分の心の狭さに直面したとき、ふと開きたくなったのが「申命記(しんめいき)」の言葉でした。
申命記は、エジプトを出た民が約束の地に入る直前に語られた、とても熱のこもったメッセージの記録です。その中の15章10節に、今の僕の心を見透かしたような言葉がありました。

そこにはこう書かれています。「彼に必ず与えなければならない。与えるとき、惜しんではならない」と。
この言葉を読んだとき、僕は最初、「やっぱりケチな心はいけないんだな」と反省するだけでした。でも、ヘブライ語の原文を調べてみたとき、もっと深い、温かいメッセージが隠されていることに気づいたんです。

この箇所で使われている「与える」という言葉は、ヘブライ語で「ナタン(נתן)」と言います。
ヘブライ語は右から左に読みますが、この「ナタン(Nun-Tav-Nun)」という単語、実は右から読んでも左から読んでも同じ「ナタン」になる回文になっているんです。
これが何を意味しているのかというと、「与えることは、一方通行ではない」ということです。出したものは、必ず巡り巡って自分の元へと帰ってくる。ヘブライ語の文字そのものが、エネルギーの循環を表しているんですね。

僕がレジの前で感じた「減ってしまう」という感覚は、実は錯覚だったのかもしれません。自分の手から離れたとしても、それは失われたのではなく、大きな巡りの中に解き放たれたということ。
さらに聖書は、「与えるとき、惜しんではならない」と続きます。ここの「惜しむ」という言葉は、直訳すると「心が悪くなってはいけない」や「心が痛んではいけない」というニュアンスがあります。

神様は、僕たちが無理をして自己犠牲で与えることを求めているわけではないんだな、と感じました。僕が「痛いな」「損だな」と思いながら嫌々差し出すことを、神様は望んでおられない。むしろ、与えることによって生まれる「ナタン(循環)」の喜びを、僕自身にも味わってほしいと願われているような気がします。

あの時、値札を見て躊躇してしまった僕ですが、この「ナタン」の形を思い浮かべると、少し勇気が湧いてきます。
握りしめれば、そこで流れは止まってしまう。でも、手を開いて差し出せば、そこから豊かな循環が始まる。

お金や物だけじゃなく、時間や、優しい言葉や、笑顔もきっと同じですね。今日は誰かに何かを「ナタン」できるチャンスがあるかな。そんなふうに考えると、なんでもない一日が、宝探しのようなワクワクした時間に変わるような気がします。

僕もまだまだ、自分のことばかり考えてしまう未熟な人間ですが、聖書の言葉という鏡に心を映しながら、少しずつ、手のひらを広げられる自分になっていきたいなと思います。
このブログを通して、そんな気づきの旅をこれからも一緒に歩んでいただけたら嬉しいです。

気になった方は、ぜひAmazonで『創世記 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#申命記
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY11
関連検索ワード