安倍晋三回顧録より抜粋#安倍晋三回顧録 #検察庁法改正案 #安倍晋三 検察庁法改正案と「責任の所在」― 安倍晋三の回顧録を読み解く ―安倍晋三元首相の回顧録には、次のような記述がある。「検察庁法改正案による定年延長は、政権側から持ち出したのではなく、法務省側(辻裕教法務事務次官と稲田伸夫検事総長)からの要請であった。」一見すると、「自分は頼まれただけだ」という立場を強調しているように読める。だが、これは本質的に“子供の言い訳”と変わらない。「頼まれたからやった」では、政治的責任は免れない。国家の意思決定において、最終的に署名し、閣議決定を通すのは「総理大臣」である。つまり、いかなる要請があろうとも、決断した時点で責任は総理自身にある。⸻政治判断と「保身」の構造この法改正案の狙いが、「黒川弘務・東京高検検事長の定年延長」にあったことは周知の通りだ。黒川氏は「政権に近い」とされていた人物であり、もし改正が成立していれば、彼が検事総長になる道が開かれていた。ところが、賭け麻雀問題が報じられ、世論が一気に反発。安倍政権は二階幹事長と協議のうえ、法案の成立見送りを決定した。しかしその経緯を回顧録では、まるで「自分は知らぬ間に巻き込まれただけ」と言わんばかりに記している。「自分は頼まれただけ」「二階氏と相談して見送った」「黒川氏はテンピン麻雀(1000点100円)をしていたに過ぎない」──これらの言葉に漂うのは、「士」ではなく「大衆」の倫理である。⸻武士道の視点から見た「責任」新渡戸稲造の『武士道』では、「義」「恥」「信」が為政者の徳目として最も重んじられる。だが、安倍氏の説明には「恥を知る」姿勢がまったく見られない。責任を部下や制度に転嫁する姿は、まさに**「士」ではなく「官僚的政治屋」**の典型である。法務省が要請したとしても、政治的判断として「通す」「止める」を決めるのは首相の役割。この点で、安倍氏の「要請されたからやった」という弁明は、武士道的には**「不義」であり、近代的民主主義の原則から見ても「責任放棄」**である。⸻歴史的評価としての一文もし彼が本当に「頼まれただけ」だったとしても、その「頼まれごと」が政権の私物化と見られる危険を孕んでいた以上、それを判断し止めるのが政治家の矜持であり、知恵である。結果として、安倍晋三は「頼まれた政治」を演じながら、国家の統治責任を放棄した“指導者の仮面を被った大衆人”だった。