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マサヤス 龍之介
#東京大空襲
☆『東京大空襲の日』
本日は今から丁度80年前にそれが行われた日。爆撃を行ったのはアメリカ陸軍航空軍。M-69焼夷弾などを使った絨毯爆撃により大東京は一面焼野原となり果てた。昭和20年に入ると太平洋戦争末期で、日本の戦局は後退の一途を辿っていた。日本は報道管制が敷かれて客観的で正確な報道がなされていなかったから、日本に不利な戦況は報道されずに国民はツンボ桟敷に置かれていた。こうした情報統制は例えば日々の天気予報なども抑制されて、明日の天気すらこの当時の日本人は知ることが出来ない始末であった。そんなことをしてもアメリカは独自の情報で日本の天気を知ることは容易かった訳だし、日本の暗号文は悉くアメリカ側に解読されていたのが実際であった。
私の父は東京蒲田付近で生を受けた。当時大森の電気会社で技師をしていた祖父の通勤に好適地だったからだが、アメリカ軍による東京の初空襲は昭和17年4月だったがそれから2年半は無かった。東京への空襲が本格化したのは昭和19年11月24日の荏原区(現.大田区)などへの市街地への無差別空襲が行われてから繰り返されていた。そうした状況から危機感を抱いた祖父は故郷の東伊豆・河津町への家族の疎開を決断し、一家が祖父だけを残して縁故疎開をしたのは東京大空襲の前日の3月9日のことであったという。ギリギリの選択だった訳だが、祖父の英断により私は今日もこうして生かされていることに感謝している。伊豆に越してからの父は"都会の子"として(当時父は11才)地元っ子らからイジメを受けたらしい。そのイジメっ子の中に後に文化放送の人気アナになりフリーに転身した土居まさるがいたことを父は証言していた。イジメの程度は可愛いもので、吊橋を渡っている時に揺すられたり、皮のズックを履いていると囃し立てられたりしたそうだ。当時伊豆の子供らは草鞋が基本だったらしいから靴を履いている時点で父は浮いていたと思われる。
何処にせよ、あの歴史的大空襲の災禍に父が巻き込まれ無かったことが今日の己の生にも大きく影響している感慨を考える、今日はそんな一日である一席。








ズン・ロン
父祖を思えば涙に暮れる
令和7年3月10日分
#GRAVITY短歌部 #短歌
#劉氏文集
#東京大空襲

キアラ
思ってみれば疎開をしていたにしろ父は当時10歳、戦後の焼野原を知っているのだ。
#東京大空襲
ダフニスとクロエ

みっきー
お地蔵さんが無くなっちゃったなんて、どんなに空襲激しかったんだろう。
#東京大空襲
#南砂


ズン・ロン
我が父祖たちは
逃げ惑いたり
3月10日、東京大空襲
#GRAVITY短歌部 #短歌
#劉氏文集
#東京大空襲
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