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マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

岸辺🏝️のコラム✍️ ♯ 20

#東京大空襲


 ☆『東京大空襲の日』

本日は今から丁度80年前にそれが行われた日。爆撃を行ったのはアメリカ陸軍航空軍。M-69焼夷弾などを使った絨毯爆撃により大東京は一面焼野原となり果てた。昭和20年に入ると太平洋戦争末期で、日本の戦局は後退の一途を辿っていた。日本は報道管制が敷かれて客観的で正確な報道がなされていなかったから、日本に不利な戦況は報道されずに国民はツンボ桟敷に置かれていた。こうした情報統制は例えば日々の天気予報なども抑制されて、明日の天気すらこの当時の日本人は知ることが出来ない始末であった。そんなことをしてもアメリカは独自の情報で日本の天気を知ることは容易かった訳だし、日本の暗号文は悉くアメリカ側に解読されていたのが実際であった。
 私の父は東京蒲田付近で生を受けた。当時大森の電気会社で技師をしていた祖父の通勤に好適地だったからだが、アメリカ軍による東京の初空襲は昭和17年4月だったがそれから2年半は無かった。東京への空襲が本格化したのは昭和19年11月24日の荏原区(現.大田区)などへの市街地への無差別空襲が行われてから繰り返されていた。そうした状況から危機感を抱いた祖父は故郷の東伊豆・河津町への家族の疎開を決断し、一家が祖父だけを残して縁故疎開をしたのは東京大空襲の前日の3月9日のことであったという。ギリギリの選択だった訳だが、祖父の英断により私は今日もこうして生かされていることに感謝している。伊豆に越してからの父は"都会の子"として(当時父は11才)地元っ子らからイジメを受けたらしい。そのイジメっ子の中に後に文化放送の人気アナになりフリーに転身した土居まさるがいたことを父は証言していた。イジメの程度は可愛いもので、吊橋を渡っている時に揺すられたり、皮のズックを履いていると囃し立てられたりしたそうだ。当時伊豆の子供らは草鞋が基本だったらしいから靴を履いている時点で父は浮いていたと思われる。
 何処にせよ、あの歴史的大空襲の災禍に父が巻き込まれ無かったことが今日の己の生にも大きく影響している感慨を考える、今日はそんな一日である一席。
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コメント

釣りパパ 陸戦型

釣りパパ 陸戦型

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確かに真実を伝えて正しい判断が出来る人ばかりではないのは分かりますが、いまの日本政府というか世界中の為政者は変わらないものですね。 そして民間人を虐殺するアメリカ。

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マサヤス   龍之介
マサヤス 龍之介
貴方様のように、色々考えて頂きたくまた、若い人にも認識して頂きたく私はこうした記事を書いております。アメリカの非道な措置(空襲、原爆投下)、アメリカは今でもそれは正しかった、を繰り返してますね。果たして東京大空襲と原爆投下は必要だったのかは疑問です。
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いちろう

いちろう

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マサヤスさん生きてて良かった 土居まさるって、、何となく想像つくわ〜[疑っている]独り残られた爺様は、ご無事で?

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マサヤス   龍之介
マサヤス 龍之介
ありがとうございます[照れる] 土居さん、ガキ大将だったらしいです[笑う] 源太郎爺さんはその時は無事に戦火を潜り抜けてくれました。 孫想いのいい爺さんで83歳で他界致しました。手先の器用な爺さんで晩年は実家近くに住み、模型でミニハウス作ったりして当時の市報に載ったりしてました。
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龜蛇(旧:白石建)

龜蛇(旧:白石建)

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私の父の家族も、山梨県内にある祖父の実家に縁故疎開していたそうです。都内山谷にあった家は完全に焼失したそうです。一家全員命拾いはしましたが、親戚や地元の子どもたちには相当いじめられたようで、戦後は一度もその地を訪ねませんでした。

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マサヤス   龍之介
マサヤス 龍之介
浅草だからヤバかったですね。東京大空襲は下町がターゲットにされたそうなんで、よくぞご無事でした[照れる] 私は大人になってから東伊豆を訪れたことありました。
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