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チャーハン大王
#昭和の歌
☆『別れのブルース '37』
淡谷のり子。服部良一がコロムビア・レコードに移籍してすぐの1936年昭和11年に早速アップテンポのスイングジャズ風流行歌♫おしゃれ娘 を淡谷に提供している。服部はマイナーレーベル時代から淡谷の洋楽テイストなレコードをかなり聴き込んでおり、淡谷のり子と云う女性シンガーにかなり早い段階から注目していたことが自伝に書かれていた。そんな淡谷の才に、服部は入社早々からいきなり、かなりな4ビートのリズムの利いたスイングセッションを宛てがい、効果の程を実感した。
淡谷は1929年昭和4年に東洋音楽学校声楽科を首席で卒業、卒業公演でウェーバーの♫魔弾の射手のアガーテのアリア をその美しいソプラノで披露して、翌日の新聞でも取り上げられ「十年に一度の新星」と賞賛され、誰もがクラシック界へ進むものと思っていたが、元々、没落していた青森の実家、淡谷家を支えて行かねばならず、クラシックで自分の身辺の生活費からまとまった仕送りを賄うのはとても無理と云うことで、流行歌手の道を選択したのだが、当時流行りのヨナ抜き短音階の演歌風流行歌だけは唄うまい、と決めこんでおり、唄うならフランスの香気溢れるシャンソンや情熱のラテンのリズムであるルンバやタンゴといった所謂、ジャズソング系のものに自分の表現法を賭けようと意気込んでいた。東洋音楽学校在学時の頃の実家は赤貧状態でそんな状況でよく音楽学校へ淡谷も行ったな、と思うほどだがそこが淡谷のり子と云う人物を表している。要するに、好きな事には身を賭してでも打込みたいという欲求を抑えきれなかったのだ。身銭は自分で稼ぐ…の精神でバイトを始めたが、選んだのが当時絵画界でも先鋭的だった太平洋画会の裸婦のモデルだった。やがて倍率の高いオーディションを勝ち抜いて淡谷は何とかモデルになることが出来た。高名な画家、田口省吾の「裸婦臥像」が二科展に出品されたモデルが若き日の淡谷だった。田口のアトリエで裸になっていた或る日、休学していた東洋音楽学校で淡谷のピアノの講師をしていた吉原が「おい田口、いるか」と怒鳴り込んできて、裸の淡谷を咎めた。淡谷は一目散に逃げ出した。吉原は田口へ淡谷が音楽学校の生徒で前途有望な娘であることを話した。後日、田口は淡谷へ「キミのことは吉原君から聞いたよ。そういう悩みも打ち明けて欲しい。僕は全て呑み込んだから君は学校へ戻り給え」そう言って淡谷のみならず、目を患っていた淡谷の妹の治療代も田口がすべて面倒を見てくれた。おまけに学校へ戻った淡谷を待ち受けていたのは、それまで一介の生徒に過ぎなかったのにいきなり特待生になり月謝免除という素敵なご褒美だった。これは単(ひとえ)に吉原先生の尽力によるものだったが、同じ東洋音楽学校で淡谷の声楽の師、久保田稲子の一押しも功を奏したようだ。久保田は早くから淡谷の才能を見抜き、経済的にも立ち行かない淡谷家の実情の事も把握した上で敢えて厳しく学校では淡谷に接したが、1歩学校を出ると、お腹を空かせている淡谷にカツライスを奢ってくれたと云う。そして淡谷が壮年期になってからもずっと淡谷を陰で応援し続けた。1985年昭和60年にNHKラジオ第一でオンエアされた淡谷の特別番組にも未だかくしゃくとしていた久保田がラジオ出演して淡谷と対談したテープを私は持っている。こうして見てくると淡谷のり子と云う人物は、周囲に数多の良き理解者たちに恵まれた、とも言えるであろう。東洋音楽学校(現.東京音楽大学)では大正期から高名な声楽家だった荻野綾子に最初は気に入られたと自伝にも書いてあった。荻野綾子、吉原先生、久保田稲子、田口省吾と来てやはり服部良一とのコンビは日本にブルースを浸透させたいと云う服部良一の思いを、作詞家になり立てだった藤浦洸、♫別れのブルース のディレクターだった山内義富に淡谷当人のチームが一丸となり受け止めて、その目標の為に努力した甲斐もあり、成功したミッションだった。
♫別れのブルース は最初は服部良一が日本のブルースを作るべきだ、と藤浦洸とコンセプトをあれこれディスカッションしながら案出した。その数日後、服部は横浜の本牧界隈のチャブ屋街にある一軒のバーで洋酒を傾けていた時に退廃的なシャンソンの♫暗い日曜日 が流れ出した。その時のレコードはその前年の秋にリリースされたばかりの淡谷のり子が吹き込んだものだった。服部はフランス本国版のダミアが唄った盤が好きだった。服部はその時の衝撃を自伝にこう綴っている。「…淡谷のり子の声だ。(中略)今、この本牧のチャブ屋で聴くと、一層の哀愁が強まり心が震えるのを覚える。淡谷のり子だ。本牧を舞台にしたブルースを彼女に歌わせよう。もっともっと低い、ダミア張りの声で…僕はバーを出ると、嬌声が飛び交う夜のチャブ屋街を夢遊病者のように歩いた。ブルーな旋律の断片が、見下ろす港の、沖から寄せる黒い波のように暗く悲しく浮かび消えていった」この服部の記述は貴重である。♫別れのブルース は当初本牧ブルース と題されたのだが、コロムビア・レコード宣伝部からの強い反対に遭い、仕方なしに♫別れのブルース に改変したものだった。つまり何故本牧だったのかの動悸がここに記されているからであり、話は共案者の藤浦洸にも飛び火するからである。翌朝、服部は社で藤浦を捕まえて会議室で昨夜の興奮を話した。そこで藤浦に軍資金として2円50銭ばかりを握らせて…君も早速本牧へ行って詞を掴んできて欲しい…これで、本牧ブルースを作ろう!藤浦はこの時はまだコロムビア・レコードのエドワード文芸部長の私設秘書、と云うかなり曖昧な肩書きで、社内を彷徨いていたので給料も安かったらしい。藤浦の著書には30円渡された、となっていて金額に可也の差異があるのが気になる。藤浦はやはり本牧へ行き裏ブレ気分を満喫してきたが、後日「それでも中々、詞にすることは難しい」と焦燥していた様なので、服部はアメリカの有名なブルース曲を書いたW.Cハンディの書いた名著『ブルース』を藤浦に進呈して、ブルースの基本形である三行詩形の十二小節で見事な『本牧ブルース』を数日後に書いてきた。ハンディの『ブルース』効果が早くも現れたのだ。
♬.*゚窓を開ければ 港が見える
最初藤浦はここだけしか書かない。服部が怪訝な顔をすると、「君なら、次をどうする」藤浦お得意の茶目っ気だ。自信がある証拠だ。服部もふざけて…犬が西向きゃ、尾は東…とカマした。痩身の憂愁詩人は、勿体ぶって首を振り、ペンを走らせた。
♬.*゚メリケン波止場の 灯が見える
服部は「うん、いいねえ。君の得意のカタカナが出たね」
♬.*゚夜風 潮風 恋風のせて
今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ
録音当日、淡谷と服部が少しもめた。「私はソプラノよ。こんな低い音、アルトでも無理じゃない。歌い出しが下のGなんて無理よ」昭和10年代に入ると淡谷は俄然、シャンソンやタンゴの洋楽の日本語盤を積極的にレコードリリースしてゆく。♫ポエマ ♫ヴェニ・ヴェン ♫マディアナ など、兎に角綺麗なソプラノだった。だが、この『本牧ブルース』は彼女に当てて書いたのである。彼女の可能性に賭けた歌である。服部は少々語気を強めて云った。「ブルースはソプラノもアルトもないんだ。魂の声なんだ。マイクにグッと近づいて、無理にでもこの音域で唄って貰いたい」余りの熱量に淡谷も従ったが、その服部の狙いは功を奏したようだ。
だが、一難去ってまた一難、制作陣は仕上がりに自信満々であったが、社内試聴会で営業サイドが、難色を示したのである。「何だか詩も曲も頽廃的ですな。時局に対していかがなものでしょう」「第一このブルースってのはなんです?」
「今までにはないタイプの曲だから、少々心配ですな」「本牧と云うタイトルは知名度が薄いから変更するべき」山内DE.が矢面に立って、懸命の防戦をする。漸く、タイトルを♫別れのブルース と改題して売り出すことで妥協をみた。だが、営業のおエラ方から「やっぱりブルースが気に入らん。別れの曲 とか別れ小唄 とかに出来ないか?」その戦況を黙って聞いてきた服部が憤然と反論した。「それではこのレコードが死んでしまいます。ブルースが、ボクらの目的なんです。今に、日本中のレコード会社が、どこも争ってブルースを作りはじめますよ。その時にコロムビアが後塵を拝して宜しいものでしょうか?時局とは関係ありませんよ」拍手をしたのは文芸部の面面で営業関係者は憮然たる表情だった。「ま、会社が辞を低くしてお迎えした服部先生がそれほど仰るのでしたら、これで行きましょう」昭和12年7月♫別れのブルース
はリリースされた。厳密な意味で我が国のオリジナル曲でのブルースと云うものは遡ること3年前の昭和9年にポリドールから藤田稔名義でリリースした若き日の灰田勝彦の♫浅草ブルース は服部の言うブルース音形で作られた我が国第一号のブルースである。だが、こちらは殆ど売れなかった。因みに作詞はサトウハチローで作編曲は本邦初ガーシュウィンの♫ラプソディー・イン・ブルー を日比谷公会堂で初演を務めた紙恭輔であった。服部も常々尊敬していた人で、どちらかと云えばクラシック系の人であった。
♫別れのブルース は営業や広報からほぼ見捨てられた形となり社としては殆ど無かった為にリリースから3ヶ月ほどは全く売れなかった。…やはりだめか。_| ̄|○ il||li♫別れのブルースプロジェクトの4人は意気消沈するしか無かった。昭和12年晩秋の或る日、満州・大連のダンスホール「ペロケ」で自分の楽団ホットペッパーズを率いて専属していた和製ルイ・アームストロングこと南里文雄から「この夏に東京で淡谷くんとレコーディングした♫私のトランペット も好評だが、それよりも淡谷くんの♫別れのブルース のリクエストが多い。よって、ショーのプログラムには最近じゃ♫別れのブルース を必ず入れてるよ」といった内容だった。不思議なこともあるもんだねえ……。服部が藤浦と話ていると、実は藤浦のところにも作家 浜中浩から絵葉書が来ていて「お前、へんなものを作ったね。♫別れのブルース 満州で大流行だよ。お前を連れて来りゃあ良かった、と皆言ってるぞ」同じような内容のものだった。それから数日後、漫画集団の横山隆一、近藤日出造、清水崑達がコロムビア宣伝部の玉川一郎のもとへ来て騒いでいた。「おい、玉川。♫別れのブルース ってのは、君んとこのレコードだろう。あれ、満州で大流行りだぜ。兵隊達も唄ってるし、病院の掃除の👩💼( '-' 👩💼 )オバチャンたちも唄っていた」驚いたのは玉川で、営業の方へ確認すると、もうすでに17万枚を突破していると云うではないか。「畜生め、売れているなら営業もそう云えや」後のユーモア作家玉川一郎は、機を逸すべからざると追いうちのキャンペーンに掛かった。♫別れのブルース は発売三ヶ月後に、まず外地で火がつき、長崎、神戸、大阪、横浜と港づたいに東上してきて最後は東京で爆発的にヒットしたのである。川崎のコロムビアプレス工場は連日徹夜作業でも注文に応じ切れない程だったと云う。港港から拡がって、全国の港では自分の港になぞらえて愛唱されているところが面白い、と服部自らが語っている。メリケン波止場と云うのはどこにでもあるようだ。
続
参考文献:
なつめろの人々 藤浦洸 読売新聞社刊 1971年
ブルースのこころ 淡谷のり子 新日本出版社
1978年
ぼくの音楽人生 服部良一 日本文芸社 1993年




別れのブルース

チャーハン大王
#昭和の歌
☆『或る月の夜に '47』
♫別れのブルース ♫山寺の和尚さん ♫蘇州夜曲 ♫湖畔の宿 ♫東京ブギウギ ♫バラのルンバ ♫銀座セレナーデ ♫ヘイヘイブギ ♫青い山脈 ♫恋のアマリリス ♫三味線ブギ ♫山のかなたに ♫丘は花ざかり ……流行歌全盛期にこれだけの代表曲を世に放った国民栄誉賞作曲家 服部良一。
彼は大阪・玉造に生まれ少年期より音楽活動を始めてやがて日本に来日していたロシアの名指揮者エマニエル・メッテル氏に師事し和声楽を習得。同窓に後の大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽総監督を務めた日本のマエストロの第一人者だった朝比奈隆がいる。このメッテル仕込みの編曲力を生かし当時は勃興期だった我が国の流行歌界へ。ジャズバンドでサックス奏者として活動しながら関西に乱立していたタイヘイ・ニットーといったマイナーレーベルの専属作曲家として腕を磨きやがて上京。昭和11年に晴れて外資系大手レコード会社のコロムビアへ移籍し本格的作曲家兼編曲家として頭角を表した。最初のヒット曲は
♫山寺の和尚さん だったが、大ヒットしたのは翌昭和12年にリリースされた淡谷のり子唄うところの♫別れのブルース だった。〇〇ブルースと星の数ほどあるブルース歌謡を定着させた。以後も当時流行していたジャズやタンゴ、ルンバと言った洋楽と日本の流行歌を巧みに融合させた歌謡曲のグレードアップに貢献。服部は、当時分業制だった作曲と編曲両方をこなした。それは一重に若き日にメッテル氏に習った和声楽の賜物だった。
レコーディング時には自ら書いたスコアを持参して臨み、望みうる"音"を発信できた数少ない作曲家だった。又、コロムビア入社前から多くの友人作曲家たちに無償で和声楽を教える『響友会』を開き、数多くの若き精鋭作曲家達がレコード会社の枠を跨いで巣立っていき、多くの作曲家達が編曲もこなせるようになり、服部の日本流行歌史に対する貢献度はもっと賞賛されていい。太平洋戦争によりリリース出来るレコードも徐々に制限されていく、レコード会社も大手の軒並み社名であるコロムビア、ビクター、ポリドール、キング、テイチクと言ったカタカナ表記すら変更を余儀なくされていく。そうしたご時世の下リリースされる楽曲も戦争礼賛、鬼畜米英、といった極端なまでの軍歌、軍国歌謡が奨励されていく。服部のみならず、それまで洋楽系のレコードで売ってきたディック・ミネや淡谷のり子といったベテラン勢らも肩身が狭くなっていく。服部は、と言えば軍歌を全く書かない訳にもいかず、去りとて洋楽風流行歌を中心に書いてきた作風は完全に封印せざるを得なくなったが、例えば銃後の暮らしの歌など直接戦争を礼賛するものには着手せず、間接話法的な楽曲を細々と書いていた。ディックや淡谷のり子らは国内での活動が半ば無くなりつつあり、専らその活動の大半は前線への慰問に費やされた。終戦のとき、服部は軍属として中国・上海にいた。実際は日本人なのに中国人スター歌手として大変な人気と実力を備えていた李香蘭こと山口淑子や松竹映画宣伝課員として服部らと行動を共にしていた生方敏夫や洋楽・洋画評論家だった野口久光らと、日中親善企画として上海にあった大ホールで、夜来花(イエライシャン)ラプソディーを中心に添えた大規模コンサートを開いたりして日本軍芸術班の一員として赴いていた。終戦と決まってからは同行していた李香蘭が中国の裁判所からスパイ容疑で軟禁状態となり、服部たちもその裁判を最後まで見届けた。最終的には李香蘭への容疑は晴れて無罪となって日本へ無事に帰国出来た。服部は後の回想で、ブルースが流行ったとき、日本は中国との戦争で破竹の勢いで勝ち進んで行きマスコミも国民も勝った勝ったと高揚していた。しかし素直な国民感情としては、日本の軍部が台頭しており、世界的にも孤立してゆく日本の立ち位置を考えたら、戦争に没入してゆく暗い気分の反映がブルースの流行を生んだのだ。戦後は一転して、日本全土が連合軍からの空襲を受けて都市部は焦土と化し、追い討ちを掛けるような敗戦に打ちひしがれたが、国民感情としては長く暗いトンネルから抜け出して、再び自由を謳歌出来る時代となり、明るい光明が差していた。そんな折にブギウギは解放された日本人の心の反映だったのだと思う、と述べていた。この二律背反する服部の冷静な視座は同時に服部の本音でもあったのであろう。
終戦直後に服部は帰国してから精力的に元の洋楽風オリヂナル流行歌を量産していき、幾つかの傑作が生まれたが、1947年昭和22年同じコロムビアのシンガー同士でゴールインして戦前すでに話題を振り撒いていた霧島昇と松原操のデュエットで吹き込まれた♫或る月の夜に はそんな自由に洋風歌謡を書ける喜びの中で書かれた服部らしい凝った楽曲であった。オリヂナル原盤をどうしても探し出せずやむを得ずサブスクにアップされていた後にリメイクされたダーク・ダックスの唄に小原重徳とブルーコーツが素晴らしい伴奏で彩りをそえた音源が、現在聴ける唯一のヴァージョンなので、第一回目の服部コラムに花を添えたい。


或る月の夜に
アキラ
トシちゃんの「にんじん娘」を観てとても恥ずかしい気持ちになりました
mimi
メチャクチャすごかったーーーー[泣き笑い][泣き笑い]‼️
アマとは思えないクオリティと演出‼️
演奏はプロ級🎸🥁🎹‼️
みんなover50〜60歳なのに元気💪‼️
セトリもほんまよくて[泣き笑い][泣き笑い]
一部は 昭和歌謡〜
六本木心中、大都会、ジュリーメドレー
デザイア……
↑この時点で歌い踊りまくる💃🎶
二部は オリジナルソングと…
なんとQueenメドレー[びっくり][びっくり][びっくり][びっくり]‼️‼️
We Will Rock You の手拍子👏👏ドンドンタッ❗️
そこから怒涛の
ボヘミアンラプソディ🎹🎶
からの❗️レティオガガ[泣き笑い][泣き笑い]🙌🙌🙌
ラストは
We Are The Champions‼️
みんなで大熱唱[大泣き][大泣き][大泣き]
ほんまもーーー
声カスカスなるくらい
歌ったし
お手手も痛いくらい叩いたし👏👏👏
たぶん筋肉痛なるくらい
腕もふった🙌🙌🙌
最後は会場が一体になって
ウェーブ🌊したりして…
ほんまに素晴らしい時間
素晴らしいライブでした[照れる][ハート][ハート]
楽しかった[泣き笑い][泣き笑い][泣き笑い]‼️
最高の三連休のシメやった[泣き笑い][泣き笑い][泣き笑い]‼️
#ライブ最高
#昭和の歌 #Queen #最高
#GRAVITY飲酒部
ぃやー
よく歌ったし踊ったし叫んだなぁ〜[ほっとする]
そしてよく食った😋🎶
現実、戻れなーい[ほっとする]ハラパン








We Are the Champions (Live at the Montreal Forum / November 1981)

さゆ
#中島みゆき
#りばいばる
#バグってる
#懐かしの歌
風邪で病んでると
突然こんな曲が頭に浮かんでくる。
バグってるのかな
りばいばる

チャーハン大王
#昭和の歌
☆『山寺の和尚さん : コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズ '37 』
服部良一がメジャーデビューした頃はアメリカで流行っていたスイング・ジャズが我が国にも大量に輸入されていたが、スイングと並行してジャズ・コーラスもまたブームになっていた。アメリカ本国では1920年代からビング・クロスビーのいたリズム・ボーイズのスタイルが流行し、リズム・ボーイズと同じキャリアだった元祖女性コーラスグループのボズウェルシスターズもデビューしてその息もつかせぬアッパーな見事なコーラスワークを聴かせていたものだ。少し遅れてデビューしたミルス・ブラザーズは後々ドゥーワップの連中にも影響を与えた。これら本国アメリカのコーラスグループの技術の進化は目を見張るものがあり、一糸乱れぬリズム感覚の上に見事なハーモニーを利かすそのテクニックたるや、ジャズファンならずとも虜にしたものだった。服部がこれらのコーラスモノを見過ごす筈はなかった。が、流石の服部もマイナー契約時代はそうしたコーラスものまでは手が回らなかったらしく、服部は日本の民謡とジャズの融合を若い時分から模索していた。服部の生まれは大阪・玉造のはずれ本庄が出生の地であった。芸事好きな父によく近くの千日前の寄席や演芸場へ連れて行かれて、自然と落語や義太夫や照葉狂言、江州音頭、俄といった浪速特有の芸事に親しんでいった。母は母で富田林出身の気のいい浪速女でやはり、河内音頭や江州音頭が好きだった。服部良一はこのような貧乏の子沢山な家庭で育まれたのだ。2人の姉は近所で三味線や小唄を習っており、そうした環境が良一を音感のいい子へと成長させたのかもしれない。そうした純然たる和雅楽に染まったせいもあり青年になってからの良一が、そうした民謡を覚えたての和声学理論で、民謡をジャズ化することは極めて自然な成り行きであった。
服部の初めてレコードの仕事は大阪・三国にあったコッカレコードで服部のレコード仕事での師匠に当たる鳥取春陽の作品を編曲して時々は大阪コロムビアスタジオでの録音に立ち会うといった仕事が最初と言われている。コッカレコードは当時も今も珍しいセルロイド製のレコードで販売しており、今でもきちんと再生出来るらしくそのレコードはどこで見つけたのかは分からないが、2013年にぐらもくらぶからリリースされた『大大阪ジャズ』という稀少性の高い昭和初期の大阪のレコードメーカーからリリースされた音盤のオムニバス集に服部良一の最も古いレコードの仕事が復刻されている。このコッカレコードのことは服部良一の唯一の自伝『ぼくの音楽人生』にも記載されているにも関わらず2013年に初版された菊池清麿著の『評伝 服部良一』の中では一切触れられていないばかりか、巻末に於ける「服部良一ディスコグラフィー」からも省かれている。今では服部良一の第三者が書いた正史的な位置づけすらされているこうした本でさえ、誤記や記載漏れがあることをこの際、はっきり記して置くべきであろう。
昭和4年発売コッカレコード№63a ♫テルミー
"Tell Me" は国歌ジャズバンド名義だが服部良一の編曲で、しかもas.の奏者は服部自身とのこと。セルロイドレコードからの復刻だから、音質は劣悪だがよくぞ、このような盤が残っていてくれたものだ。♫テルミー はこの時代、服部が道頓堀のカフェーを幾店か掛け持ちしていた頃で、シンガーがたまたまその夜、欠勤すると仕方無しに服部がメガホンで唄っている内に服部の優しい歌声が評判となり、服部には"テルミーさん"というニックネームまで付いて女の子たちから黄色い声援が飛んできた、ということが自伝にも書かれている。♫テルミー は服部にとっても思い出深い一曲なのである。そういう意味で、アルト・サックスのソロだけだが、復刻盤で今の世にそれが聴けるというのはこの自伝の記述を裏付けるに足る重要な一曲ということになるのである。又、翌昭和5年リリースのコッカレコード№.144bの♫串本節 も服部の編曲とサックス(Cメロディサックス)でこのレコードは服部良一の名が初めてレコードレーベルに記載された記念碑的レコードだという。編曲・指揮者と記載されたらしいが、実際はサックスのソリまで吹いているのだから、若き日の服部の前のめりさがひしひしと伝わってくるではないか。
これらを発掘し、リリースさせたぐらもくらぶ並びに(株)メタカンパニーのスタッフらと毛利眞人らの尽力に深謝するのみである。こうして服部良一のレコードキャリアは最初からジャズ+民謡という和洋折衷から始まったのだ。
引き続きマイナーレーベルに身を置いた服部は紅茶メーカーとして有名な日東紅茶が親会社だったマイナーレコードのニットー時代にはキャリアハイの音楽監督という地位にまで上り詰めた。ここで服部は作曲、編曲家としてのみならずニットーレコードでリリースするレコード企画にも参画出来る立場を意味していた。服部の民謡+ジャズの需要はそこそこ保たれながらも他のレコード会社、ましてやメジャー級のレーベルでも各社自慢の編曲家達が次々と民謡をジャズ編曲したレコードをリリースしてゆき、服部ブランドは業界内でステイタスとなってゆく。この民謡+ジャズの精神は戦後も行なわれてゆき、この傾向に着目したのが大瀧詠一だった。彼の幼少期のスター小林旭がコロムビアから相当数の民謡をロック化してリリースされている事実を暴き、後に『日本ポップス伝』としてNHKFMから数回にわけて放送されたことは大瀧が日本に於けるポップスの歴史を俯瞰して解説するというミュージシャンのポップス史として注目に値する。この放送の中で大瀧は服部の初期コロムビア時代のレコード♫草津ジャズ を紹介して戦前に於ける腕利きミュージシャンによる民謡+ジャズの最高峰として紹介していた。又、ニットーレコード時代の印象的な仕事のひとつに、ビクターレコードの♫さくら音頭 の大ヒットに乗じたニットー版♫さくら音頭 の企画が持ち上がった時にも服部は敢然と抗議した様が自伝に書かれている。要するにニットーでもこの機を逃すまいとして、ニットー版♫さくら音頭 を!となった時に服部は……今更月並みな音頭をリリースしても大して売れないだろうと、いっそ違うアプローチが必要だ、と説いたのである。じゃーあ、どうしたら?という幹部連達に……おけさはどうでしょう?と提案したのだ。こうして昭和9年4月に浅草美ち奴の唄でリリースされた♫さくらおけさ はニットーレコードのメイン販路であった関西圏で一定の売上を記録したという。こうして服部良一の単なる作編曲家としてのみならない我が国ポップス界への貢献、という点に於いてはやはりジャズコーラスモノへの着手も見逃せられない。服部のニットーレコードに於ける音楽監督としての功績は民謡+ジャズ、の他にも例えばニットーレコード内に別レーベルを立ち上げた点も見逃せない。それはニットーレコードにドイツのクリスタルレコードと原盤供給契約を結ばせた点で実現が出来た。昭和9年11月に『日本クリスタル蓄音器合資会社』が設立された。このクリスタルレーベルで服部はいよいよ本格的にアメリカ産スイングジャズの歌謡曲化へのかなり思い切った舵を切る。例えば敬愛していたアメリカの作曲家ジョージ・ガーシュウィンの作曲した♫ラプソディー・イン・ブルー のようなシンフォニック・ジャズを作品化したりした。それが昭和10年6月リリースの♫意想曲1936(1)(2) である。これは服部の初の管弦楽曲であり、次年度の日本と世界の姿を交響楽にまとめた作品であり、意欲作であった。
楽曲形式は変奏曲で、途中♫ヴォルガの舟歌 や♫スラブ行進曲(チャイコフスキー作曲) の旋律が使用されたり、時に日本軍歌の名曲♫戦友 までもが飛び出す。レーベルには"日本クリスタル交響楽団"と記されたが内実は新交響楽団(後のNHK交響楽団)が演奏したらしい。そこに当時服部と仲の良かったジャズマンである谷口又士のtb.や斉藤広義のtp.が加わった豪華なミュージシャンたちが自慢のプレイを披露されたレコードだった。こうした実験精神が見事に結実したレコードの仕事を残した服部だったが、実はニットーレコード時代にも僅かながら、ジャズコーラスを試した痕跡が確認できる。昭和10年12月リリースの♫カッポレ はニットー・リズム・ボーイズという謎のグループにより吹き込まれてリリースされている。又、服部の作曲した楽曲でもしばしば男声(乃至女声)コーラスが登場するが、レーベルクレジットはなくとも明らかに服部がジャズコーラスを試している録音としては昭和10年6月リリースのクリスタルレーベル№.2008A♫カスタネット・タンゴ では藤川光男名義で吹き込まれたレコードで女声コーラスがハーモニーを付けている。因みに同曲は戦後の昭和24年に藤山一郎がカバーしている。その前月5月にもクリスタルレーベル№.2002B♫僕等のハイキング ではメインボーカル志村道夫のバックで男声コーラスが、確認出来る。又、服部はコロムビアへ移籍する直前にニットーレコードでコーラスグループを編成し「ファイブスターズ」と名付けてレッスンさせていたが、このグループ名義のレコードはとうとうリリースされずに、コロムビアへと移籍してしまう。
昭和11年4月~いよいよニットー及びタイヘイレコードの契約を満了し晴れて大手レコード会社コロムビアレコードへ移籍入社した。翌5月リリースの淡谷のり子とリズム・シスターズ名義の♫おしゃれ娘 は数えてコロムビアレコード移籍第5弾シングルで服部はここでメインボーカルの淡谷のり子のボーカルの間隙を縫うようにボズウェルシスターズ張りの女声コーラスを大胆にも起用する。いよいよ服部のジャズコーラスモノがここで早くも登場する。その後も、当時のレコード各社の共演盤となった外国曲のカバーとなった♫ミュージック・ゴーズ・ラウンド 、二葉あき子をメインボーカルに迎えてリズム・シスターズが活躍する♫月に踊る ♫ビロードの月 淡谷のり子とリズム・シスターズの再びの共演盤♫涙の踊子 、服部と中野忠晴プラスナカノ・リズム・ボーイズの初コラボ作品♫東京見物 に♫支那ルンバ 、などメインボーカルに彩りを添えるジャズコーラスモノは充実してきたが、服部の中ではもう一歩踏み込みたかった。それにこれらの意欲作は決してヒットした、とはおよそ言い難かった。それが遂に服部のコロムビア移籍後の初ヒットがリリースされた。それがあのジャズコーラスの傑作♫山寺の和尚さん であった。これについては服部の自伝に詳述されているので引用しよう。尚、この楽曲については作曲は服部ではなく日本古謡としている資料もあれば服部の作曲としているものもあり、統一見解が待たれる。何れにせよ、服部が大胆にもメインボーカルを置かずに、コーラスグループのみでのヒットは服部をして喜ばせたに違いない。
……ぼくは、むしろ、次のアップテンポの
♫ダガジグ ダガジグ ダガジグ ダガジグ エーホッホー
(リフレイン)の反復部分にジャズコーラスの真髄を見出していて、このアイデアはぼくが自由にやったところである。こうしたスキャット唱法はリズムメイカーとしてのぼくの武器であった。先輩作曲家達に追いつき追い越すには、ぼく自身の個性が必要である。それまでの♫おしゃれ娘 ♫東京見物 ♫月に踊る がヒットに至らなかったのは、中途半端なところがあり、メロディー優先の歌謡曲調を残していたからだという反省があった。♫山寺の和尚さん では、思い切ってリズム本位にし、ジャズ調に徹した。しかし、それだけでもヒットはしなかっただろう。題材に誰でも知ってる日本古謡の手毬うたを取り上げた事が良かったのだと考える。つまりジャズはジャズでも日本のジャズを目指した事が成功に繋がったのだろう。……
続




山寺の和尚さん

とみ⛳️
この時代の音楽が一番しっくりくる
#GRAVITY昭和的
#昭和の歌
#だからって演歌じゃない
#浪花節でもない
#お洒落してた頃
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新着

🎼二枚舌の笛吹🎼
それをやっと思いだした
明日香の「花ぬすびと」
歌詞で調べればすぐわかったんだろうけど…
今聴いても斬新な歌だと思う
できればフルコーラス聴いてほしい
連動してラジオで「コッキーポップ」ってのもやってたな
パーソナリティは大石吾朗だったような
遥か昔のお話でした[にこやか]
#音楽をソッと置いておく人 #昭和の歌
花ぬすびと

おいら
・夏を待ち切れなくて
・涙のキッス
・二億六千万の瞳
・天城越え
・スリル
・唇
この辺りで攻めようかなぁと……
それとは別に
・アイドル
・あんなに一緒だったのに
・僕は僕であって
・ライオン
・LEVEL5ジャジメント
・only my railgun
この辺りも忍ばせて〜
むふふ
#GRAVITY日記
#昭和の歌
#ダメな大人
#カラオケいきたい
#カラオケ

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