リピ散歩【川越街道編1日目】前編👟今回から川越街道旅をスタートします。室町時代中期、古河公方足利家に対抗するため太田道灌により江戸城と川越城が築城されました。川越街道はこの2つの城を結ぶ街道として造成したのが始まりとされており、江戸時代に入ると川越城主松平信綱・輝綱親子により街道上に宿場町が置かれました。尚、川越を起点とする児玉往還(川越〜高崎)と繋ぐことで中山道の脇往還としての役割も果たしたようです。尚、今回の旅は中山道を少し歩いてから川越街道へ入りたいと思います①板橋駅東口に近藤勇の墓所があります。新撰組局長である近藤勇は戊辰戦争の折に千葉県流山市で捕らえられ、この地で処刑されました。首は京都へ送られ胴のみがこの地に埋蔵されたそうです。明治に入ると元新撰組隊士である永倉新八により近藤勇と副長である土方歳三の碑が建てられました。尚、敷地内には永倉新八の墓もあります。いっときは袂を分かち合った彼らですが、こうして同じ敷地内で眠っていることに何か考えさせるものがあります②板橋宿は江戸から平尾宿→仲宿→上宿に分かれており最初の平尾宿へと入ります③首都高を潜り右手の路地へ入ると東光寺があり境内には宇喜多秀家の供養塔が祀られています。宇喜多秀家は豊臣政権五大老の一人として豊臣政権を支えましたが、関ヶ原合戦の敗北により八丈島へ島流しとなりました。秀家の正室は前田利家の娘だったため前田家の庇護下に入ったそうですが、生涯八丈島を出ることはなく1655年に亡くなったそうです。秀家亡き後は宇喜多から浮田へと名を変え島でひっそりと暮らしていましたが、維新後の1870年に本土復帰を許され前田家を頼ってこの地へ移り住んだそうです。この辺りには現在でも浮田・八丈などの地名が残ってるそうですよ④中山道へ戻るとY字路が現れます。ここが川越街道との追分で、右方向が中山道、左方向(直進)が川越街道となります⑤⑥川越街道に入り400m ほど進むと四ツ又交差点の手前に1734年建立の馬頭観音が祀られています。ちなみに四ツ又とは川越街道と板橋宿から雑司ヶ谷へ向かう街道が交差していたていたため四ツ又と呼ばれたそうです⑦⑧⑨ハッピーロード大山へと入っていきます。川越屋など往時の名前が残っている店舗も見かけます。続く#リピ散歩 #旧街道旅 #川越街道 #新撰組 #宇喜多秀家