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👟リピ散歩 中山道編『15日目②』

蚯蚓の碑からの続きです。

①碑のすぐ先を右折して5分ほど山を登ると‥
②プレハブの中に蚯蚓神社があります。以前、この村で大雨が続いて大水が発生した際に大きな蚯蚓が大量死するという現象が起きました。その後村にコレラやチフスが発生したため、村人たちはこの伝染病が蚯蚓の祟りだと思ったようで山に社を建て蚯蚓を祀ったそうです。
③床にはコケシのような顔をした顔蚯蚓大権現🪱がお昼寝をしていました(笑)全国唯一であろう蚯蚓神社をこれからも大切にしてもらいたいなと思いました。

④立場茶屋跡
旅人や商人たちの中には何十キロもの重い荷物を背負って街道を歩く者もいましたが、休憩のたびに荷を降ろしてしまうと出発時に立ち上がれなくなることがあったそうです。そこで彼らは街道を歩く際に使っている杖を地面と荷物の間に立て、荷の重さを軽減して休憩を取ったそうです。このことから宿場〟でもなく間の宿でもない簡易的な休憩所を【立場】と呼ぶようになりました。
休憩する際に『一本立てる』と言う語源はここからきているようです🧐

⑤三千僧接待碑(1777年建立)
江戸時代、この辺りに慈眼寺という寺があり、この先にある中山道随一の難所『和田峠』を旅する僧たちのため、宿や食事・傷の手当てなどを行っていたそうです。初めは千人を目標に掲げ碑に〝一〟と彫ったものの、思った以上に早く千人を越えてしまったため〝一〟の上に新たに二本線を彫ったようです(笑)

⑥和田宿やその近辺は湧水が豊富です。

⑦招き猫の石塔だニャン。

⑧獅子舞が描かれた石塔もありました。

⑨若宮八幡宮
敷地内に和田城主『大井信定』親子・矢ヶ崎城代『羽田幸清』の墓碑があります。大井氏は信濃国の守護代を務める家格でしたが戦国時代に入り武田信玄による信濃侵攻で没落、この大井信定親子も1553年に起こった【矢ヶ崎合戦】の際に亡くなりました。また羽田幸清は大井家の家老とされており、同じくこの戦いで命を落としたと思われます。首はこの地に埋葬され1693年に墓碑が建立されたそうです。
尚、この羽田幸清という武将は第80代総理大臣である『羽田孜』氏の御先祖様だそうです。省エネスーツの方ですね。

#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道旅 #和田宿 #長和町
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👟リピ散歩 中山道編『15日目①』

⭐️今回のルート
【長野県長和町和田青原(歴史の道広場)〜長和町和田大出(中部電力和田発電所付近)】

昨日は台風一過の秋晴れだったので、中山道を進むために長野県へ行ってきました。
ん?なぜ15日目?って思われた方。リピは中山道旅をこれまで14回ほど行っており、東京日本橋から長野県長和町まで進んでいます。このため今回の旅はその続きからということになりますのでご了承ください。ちなみに前回(第14回)の旅が2021年9月19日だったので、約1年振りの中山道旅ということになりますね。尚、この回は石が多めとなっております

①ルート前半

②ルート後半

③路傍の石塔たち
道祖神・青面金剛庚申塔(1861年建立)

④風情のあるバス停

⑤天王社常夜燈(1800年建立)
天王社とは『牛頭天王』や『須佐之男命』などを祭神とする神社です。疫病の神である牛頭天王を奉ることで逆に疫病を防ごうという信仰です。この天王社は1806年に制作された『中山道分間延絵図』にも記載があるそうです。

⑥安藤広重作『中山道六十九次 和田』をあしらったマンホール

⑦巨大な馬頭観音

⑧いぼ地蔵(1727年建立)
ケガやイボなど、子供の悪い箇所を石を撫でた後、その石を地蔵尊に奉納することで悪い箇所が治るという言い伝えがあったそうです。

⑨蚯蚓(ミミズ)道祖神
【道祖神】とは、村内に災いが入らないよう村の出入口等に置かれた神様のことです。仏像や御神体と違って形(型)にとらわれることが無いため、様々な形の道祖神が造られました。中でも一番多いものは『道祖神』と文字で書かれたもので、次に多いのが仲睦まじい夫婦が描かれた『双体道祖神』です。
このことを踏まえて蚯蚓道祖神を見学します。蚯蚓道祖神はその名の通り蚯蚓🪱が描かれた道祖神です。蚯蚓は農業を行う上では欠かせない良質土をもたらす生き物で、良い作物が育つようにと願いを込めて祀られたと思われます。何と!この辺りの地名も〝蚯蚓〟だそうです。ただし蚯蚓は雌雄同体のはずですが(笑)この道祖神にはオスとメスが描かれています。

#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道旅 #和田宿 #長和町
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👟リピ散歩 『中山道編15日目③』

いよいよ和田宿の中心部へと入ります。和田宿には江戸時代の建物も多く残されており往時の雰囲気たっぷりです。リピくらいになると景観を見ながら白メシ3杯食えます ٩(๑`^´๑)۶
尚、この先の投稿は更にマニアの域に入るため、今回の中山道旅は③にて終了します。次回は『番外編』にてお会いしましょう。アデュー[ほっとする]

①②③かわちや
街道を進み追川を越えると右側に『かわち屋跡』が現れます。
1861年築。元々は旅籠でしたが現在では歴史資料館として公開されています。通常の旅籠には無い上段の間があり、一般の旅人より幕府の役人や豪商などが宿泊した旅籠だと思われます。

④〜⑨和田宿本陣跡
かわち屋跡の先には『和田宿本陣跡』があります。
和田宿の次の宿場町は下諏訪宿ですが、その距離は5里半(約22km )と非常に長く更に和田宿と下諏訪宿間には中山道随一の難所である和田峠がありました。このため和田宿には休憩者や宿泊者が非常に多く江戸時代を通して大変賑わったそうです。
時は過ぎて幕末‥1861年3月に宿場内で大火災があり本陣を含む宿場の3分の2が全焼してしまいました。しかし【公武合体政策】による【皇女和宮の降嫁】がその年の11月に控えていた和田宿では幕府からの補助金と借入れ金で宿場全体が急遽再建されました。和宮一行は8万人(笑)にも及んだそうで宿場全体を再建しないと偉い人たちも野宿になっちゃいますものね(笑)
ちなみに和田宿を歩くと1861年や1862年築の建物が多いのはこのためです。ただ、新しい建物は明治以降に取り壊されることも少なかったようで現在でも素晴らしい景観を残しています。

和田宿(日本橋から28番目の宿場)
1843年統計
本陣 1(長井家)
脇本陣 2(翠川家)(羽田家)
旅籠 28
人口 522人

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