リピ散歩👟 甲州街道編⑩あちこち寄り道をしていましたが、再び呉服橋交差点に戻り東京駅方面へ向かいます。高いビルとスタイリッシュなリーマンたちにオドオドしながら石垣や説明板を眺める田舎者のリピでした笑⭐️北町奉行所跡⭐️呉服橋交差点の南西に鉄鋼ビルがあり、その西側にあるトラストタワーとの間を左折してビルとビルとの間を進んで行くと『北町奉行所跡』の説明板があります(古地図を見ると呉服橋門を渡った左側に北町奉行所を確認できます)北町奉行所は1806年〜幕末までこの地に置かれ、南町奉行所と交代で職務を行っていました。有名な〝遠山の金さん(遠山景元)〟は1840〜1843年にかけここで采配を振るっていたそうです。ちなみに景元は奉行という立場にありながら水野忠邦の【天保の改革】に反対し奉行職を罷免されています。天保の改革では寄席の閉鎖や歌舞伎役者の処罰など過度な贅沢を禁止したため江戸の町人にとって不満がたまる結果となりました。改革に反対した遠山景元が町人の英雄となったことで〝庶民のヒーロー〟遠山の金さんが生まれたそうです。尚、南町奉行所は有楽町駅付近にあったそうで、駅前広場に『南町奉行所跡碑』が建てられています。⭐️丸の内⭐️北町奉行所跡から東京駅構内に入り『丸の内北口』方向へ向けて西進します。この東京駅を含めた一帯は『丸の内』と呼ばれています。日本の城には本丸や二ノ丸など〝丸〟という表現を用い、外堀通りから江戸城の敷地内に入るという意味で〝丸の内〟と名付けられたそうです。江戸時代には多くの大名屋敷が立ち並び『大名小路』と呼ばれていましたが、明治に入ると大名制度も解体され大名小路は廃れていきました。明治政府により日本軍の施設が置かれた時期もありましたが、堀に囲まれた土地のため用地が狭く、軍備拡張を目指す日本軍はより広い土地へ移転していったそうです。その空いた土地に目を付けたのが三菱財閥二代目総帥『岩崎弥之助』です。明治23年(1890年)、弥之助は丸の内一帯を買い上げ『三菱一号館』を造ります。その後多くの企業が丸の内へと入り、更に大正時代に東京駅の開業や道路整備が進んだことで丸の内は世界有数のオフィス街へと発展していきます。近代的なビルと煉瓦造りの東京駅とのコントラストは映えますね。#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #北町奉行所跡 #丸ノ内