人気

リピート💫
🔹下諏訪宿を出て塩尻峠へ向かいます。出来る限り旧街道をトレースしながら進んでいるので時には『えっ?』って言うような狭い道もあります。
🔹下諏訪、岡谷、塩尻を走っていると勾配の緩い屋根や雀おどしの棟飾りがある『本棟造』が多く見受けられます。また双体道祖神も数多く祀られており、特に下諏訪や岡谷の道祖神は諏訪大社と同じように四柱で守られています。
🔹塩尻峠の手前には茶屋本陣今井家があります。ここは峠を越える前に休息を取る立場茶屋跡で4件の茶屋があったことから四ツ家立場と呼ばれていました。幕末には皇女和宮、明治には明治天皇も休憩した由緒ある茶屋跡として母屋も含めた十一棟が国の登録有形文化財に指定されています。門脇には明治天皇今井御小休所碑がありました。
🔹今井家を越えると更に勾配がキツくなり自転車を漕ぐことができなくなります。そのかわり後ろを振り返れば眼下に諏訪湖の遠望が広がっていきます。
🔹石船観音から本格的な峠道の始まりです。塩尻峠は頂上まで約1kmの距離ですが約160m 上るそうです。サドルにペットボトルを置き水面を平行にして撮影したのでいかに斜度があるか分かると思います((;゚Д゚)))
🔹産まれたての子鹿のように足をプルプルさせながら頂上に到着、展望台から諏訪湖を眺めると遠くに富士山も見えました。ここは英泉の中山道六十九次『塩尻』に描かれた絵の場所で、ときより吹く心地よい風が峠越えの疲れを吹き飛ばしました。尚、中山道六十九次は広重と英泉の合作であり、下諏訪宿は広重、塩尻宿は英泉により描かれています。
#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道 #下諏訪宿 #塩尻峠










リピート💫
中山道は下諏訪宿の中心へ入っていきます
🔹下諏訪宿本陣跡
江戸幕府成立前は裨田家、1601〜1688は小口家、それ以降は岩波家が本陣を務めました。本陣には武田信玄の書状が保管してあるそうで、幕末から明治にかけても皇女和宮や明治天皇が宿泊・休憩した由緒ある本陣だったようです。尚、安藤広重『下諏訪』の絵に描かれているのはこの岩波本陣だそうですが、本陣は大名クラスの要人しか宿泊できないため庶民が飲食や入浴を行っているこの絵は広重のオマージュと考えられています。
🔹甲州街道追分
本陣のすぐ先には甲州街道との追分があります。日本橋以外で五街道と五街道が合流する全国で3ヶ所しか存在しない貴重な追分です。和田峠方面から来た場合、直進が甲州街道、右折が中山道となります
🔹諏訪大社下社秋宮
追分から甲州街道を進み諏訪大社下社秋宮へ立ち寄りました。秋宮も春宮と同じく諏訪大社四社のうちの一つで社殿も春宮とそっくりです。尚、諏訪大社は上社と下社に分かれますが各社においての社格は無いそうです
🔹復元された高札場や下諏訪駅構内の万治の石仏のオブジェを見ながら下諏訪宿を後にします
🔹魁塚
下諏訪駅の北西には幕末の志士『相楽総三』を始めとした赤報隊幹部8名の処刑地(魁塚)があります。
大政奉還後、相楽総三を中心とした一味は武力討幕を目指す西郷隆盛らの指示により『出流山挙兵事件』など3件の事件を起こし、更に江戸での掠奪・放火・暴行などを行い幕府を刺激しました。これに耐えかねた庄内藩が薩摩藩邸を襲撃したことを発端として戊辰戦争が起こりました。その後、総三は赤報隊を結成し東山道総督軍先鋒として江戸へ進軍しましたが『租税半減』の旗印を掲げて進んだことや新政府軍の命令を無視して独断専行を行ったことで味方である新政府から偽官軍との扱いを受け小諸藩に捕縛後この地で斬首されました。この事件にはいくつかの疑問があるそうで、本当に独断専行をしていたのか?新政府の命令通りに『租税半減』を掲げたが実際はその公約が不可能なことを分かっていた新政府は、相楽総三の独断で行われたと流言することでわざと汚名を着せたのではないか?ということです。いずれにせよ明治3年にこの塚が建てられ総三たちの名誉回復は成ったそうです
#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道 #下諏訪宿 #魁塚










リピート💫
諏訪湖が見えたところで右手にある諏訪大社春宮&万治の石仏へ立ち寄りたかったのですが、今回は大人の都合で立ち寄りませんでした(写真は昨年秋の『リピ散歩中山道編16日目』にて訪れた際に撮影したものです)
🔹諏訪大社下社春宮🔹
諏訪大社は全国にある諏訪神社の総本山で上社本宮・上社前宮・下社秋宮・下社春宮の4つの社に分かれています。創建年はよくわかっておらず、古事記『国譲り』に登場する大国主神の次男『建御名方神』が国譲りを強行する邇邇芸命(ニニギノミコト)と戦い、敗れて諏訪に落ち延びた後に創建したと伝わっています。
阿像の獅子と吽像の狛犬
現代では二頭を総称して狛犬と呼ばれていますが元々は『阿の口をする獅子』と『吽の口をする狛犬』として区別された動物でした。二頭は遣唐使により持ち込まれ、仏教思想(特に仁王像)の影響を受け社の入口に置かれるようになったそうです。ちなみに沖縄等でよく見られるシーサーは、獅子を現地の言葉で発音したものだそうです。
🔹万治の石仏
諏訪大社の北西にある万治の石仏は1660年に建立されました。創建年が和暦で万治だったことからこう呼ばれているそうです。
1657年、高島藩主高島忠晴が諏訪大社に大鳥居を奉納するため石工がとある大石にノミを入れたところ、掘った箇所から血が流れだしたため鳥居から石仏(阿弥陀如来)へ造り替えられたそうです。この石こそが万治の石仏であり、現代まで信仰の対象となっています。尚、太陽の塔で有名な岡本太郎氏が絶賛したとされ敷地の入口には岡本氏の万治の石仏碑があります。
🔹紫雲寺の矢除石
街道に戻ると左手に紫雲寺があり、参道の途中に矢除石が祀られています。
信濃国に進攻する武田信玄が諏訪を訪れた際に紫雲寺の住職に戦に勝つ方法を聞いたところ、住職はこの石の上に乗り『この石は矢除けの霊力があるので近くで矢を射手ても当たらない』と言ったそうです。信玄は真相を確かめるため石に矢を射かけましたが矢は一本も当たらなかったそうで、驚いた信玄は矢除石の霊力を受けてから戦に向かったという伝承が残っているそうです。
🔹諏訪宿へ入ると町内至る所から熱い温泉が湧き出ています。さすが温泉の街ですね♨️
#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道 #下諏訪宿 #諏訪大社









関連検索ワード