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ゆーちゃん
ランチを食しながら読書に耽る…哲学者ドゥルーズにとって今年は生誕100年、没後30年なんだと、私の読書体験で重要な位置を占めるジル・ドゥルーズに思いを馳せる
若き思考者千葉雅也と福尾匠の対談、「芸術以後、哲学以後 - 101年目の横断」は刺激的である
「生活の中で出る垢みたいなものとして書き捨てているものが、他人にとっては作品になるのかもしれない」(福尾匠)
「まったくアポカリプス的ではない、ただの日常の新たなる相貌みたいなものに向き合う局面に来ていると思います」(千葉雅也)
これからも私はドゥルーズの思考の断片を読み続けるのだろう



ゆーちゃん
明日以降の仕事に役立つ考えがあったなと思い、「哲学とは何か」(ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ共著)を読み返していた
「オーストラリアの多雨林に棲む鳥、スキノピーティス・デンティロストリスは、毎朝あらかじめ切り取っておいた木の葉を下に落とし、それを裏返すことによって、色の薄い裏側を地面と対照させ、こうして言わば[モダンアートにおける]レディ・メイドのような情景をつくり、そして、その真上で、蔓や小枝にとまって、くちばしの下に生えている羽根毛の黄色い付け根をむきだしにしながら、或る複雑な歌を、すなわちスキノピーティス自身音色と、スキノピーティスがその間、断続的に模倣する他の鳥の音色によって合成された歌を歌うーこの鳥は完璧に芸術家である。一個の芸術作品全体の下描きをなすものは、肉のただ中における共感覚ではなく、テリトリーのなかの諸感覚のブロック、すなわち色、姿勢、そして音である。この音響ブロックはリトルネロであるが、さらに、姿勢リトルネロと色彩リトルネロも存在する。姿勢と色はつねにリトルネロに入り込んでいるということだ。かがむ、そして頭をあげる、輪になって踊る、色の線を引く。リトルネロの全体が感覚存在なのである。」


ゆーちゃん
哲学者ジル・ドゥルーズが「既知と未知の尖端で書くこと」と言ったように、私は時折ビジネス現場や講演現場などで、考えて書くことはそういうことなのだと実感することがある

ゆーちゃん
今日は思考を先鋭化させていたいので、ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ共著の「千のプラトー」を移動のお供にチョイス
以下私が好きな部分を引用
「戦争機械と国家装置を比較するために、ゲーム理論の立場から、将棋(チェス)と碁という具体例を取り上げて、それぞれの駒、駒同士の関係、そして空間のあり方を検討してみよう。将棋は国家のゲームあるいは宮廷のゲームであって、それに打ち興じるのは中国の皇帝である。将棋の駒の総体はコード化されていて、おのおのの駒は、駒の動きや位置、そして駒同士の敵対関係を規定する内的本性つまり内的諸特徴をそなえ、名前と資格を与えられている。したがって、桂馬は桂馬、歩兵は歩兵、飛車は飛車のままである。一つ一つの駒は、いわば相対的権能を付与された言表の主体であって、このような相対的権能のすべては、言表行為の主体、将棋を指す人自身あるいはゲームの内部性形式において組み合わされる。これに対して、碁石は、米粒というか錠剤というか、要するに数的単位にすぎず、無名の機能、集団的ないし三人称的機能しかもたない。『それ』はひたすら進むのであって、一人の男でも女でも、一匹の蚤であっても象であっても差し支えないのである。碁石は主体化されていない機械状アレンジメントの要素であって、内的特性などもたず、状況的な特性しかもたない。それゆえ駒どうしの関係も将棋と碁では非常に異なっている。将棋の駒は、内部性の環境において、自陣の駒同士のあいだに、また敵陣の駒とのあいだに、一対一対応関係を取り結び、構造的に機能する。碁石の方は、外部性の環境だけを、すなわち星雲状、星座状布置とのあいだに外部的な関係だけを構成し、これらの関係にしたがって、縁取る、囲む、破る、などの挿入あるいは配置から生じる機能を果たすのである。」


ゆーちゃん
今日の移動中、ジル・ドゥルーズの著作「記号と事件 1972ー1990年の対話」を再読していた
私の好きなテクスト部分を以下に引用しよう
「私たちは無用の言葉によって、さらには途轍もない量の言葉と映像によって責めさいなまれている。愚劣さはけっして口をつぐもうとしなかったし、目をとじようともしなかったのです。そこで問題になってくるのは、もはや人びとに考えを述べてもらうことではなく、孤独と沈黙の気泡をととのえてやり、そこではじめて言うべきことが見つかるように手助けしてやることなのです。押さえつけようとする力は、人びとが考えを述べることをさまたげるのではなく、逆に考えを述べることを強要する。いまもとめられているのは、言うべきことが何もないという喜び、そして何も言わずにすませる権利です。これこそ、少しは言うに値する、もともと稀な、あるいは稀になったものが形成されるための条件なのですから。私たちを疲弊させているのは伝達の妨害ではなく、なんの興味もわかない文なのです。ところが、いわゆる意味というものは、文がよびさます興味のことにほかならない。それ以外に意味の定義はありえないし、この定義自体、文の新しさと一体をなしている。何時間もつづけて人の話を聞いてみても、まったく興味がもてない……。だからこそ議論をすることが困難になるわけだし、またけっして議論などしてはならないことにもなるのです。まさか相手に面と向かって『きみの話は面白くともなんともない』と決めつけるわけにはいきませんからね。『それは間違っている』と指摘するくらいなら許されるでしょう。しかし人の話はけっして間違っていないのです。間違っているのではなくて、愚劣であるか、なんの重要性ももたないだけなのです。」
sns時代に撒き散らされる言葉、文などに、この哲学者のテクストが深く刺さる

