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ハシオキ龍之介

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昭和懐古録 # 290

#グラビティ昭和部


・昭和9年((1934年)

☆『この年のラヂオ』

*語りに音楽を配した「ラジオ小説」、歌を物語でつづった「歌謡物語」、「小唄物語」、一週間のニュースをコントにまとめた「ニュース演芸」などがあらわれた。

1月12日 第一回全国アナウンサー採用試験を実施(応募者七百二十八人、採用二十五人)。
3月1日 東京放送局、「聖典講義」放送開始、第
一回友松円諦の法句経。
6月1日 台湾と満州向けに国内番組の短波放送開始。
11月1日 新京放送局、全満州向け放送開始。
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昭和懐古録 # 379

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☆『流行』

新官僚/国体明徴/天皇機関説/ソシアル・ダ
ンピング=国内で高く、海外で安い価格を設
定。この年、綿布輸出量史上最高、貿易収支十
七年ぶりに黒字、列国の批判をうけた/あなあ
た、なぁんだい/晩の超特急。
喫茶店(東京に一万五千店)/月賦販売。


※ 昭和10年の喫茶店風景
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昭和懐古録  ♯ 174

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 ・昭和8年(1933年)

 ☆『小林多喜二の虐殺』

 2月21日 プロ作家の驍将、小林多喜二氏は
 目下保釈出獄中のものであるが、共産党再建
 運動の疑ひあり、二十日午後一時赤坂区溜池
 電車通で築地署水谷特高主任小澤巡査が逮捕し 
 同署に引致取調べをなしたが、逮捕の際小林氏
 は相当抵抗し至極元気であったが、取調べを行
 つた上同日午後四時留置場に収容し、間もなく
 午後五時半頃小澤巡査が留置場をのぞいてみる
 と、小林の態度が一変して何か苦悶してゐるの
 で直ちに付近の築地一丁目前田博士の往診をう
 けたところ、心臓麻連と決定、直ちに応急手当
 をなし同七時前田病院に収容したが、その時は
 もはや全く意識不明で午後七時半絶命した。小
 林氏は発病直前には非常に元気であり又服毒の
 形跡もないが築地署長は取調べに当って絶対に  
 暴行を加へなかつたと言明してゐるので死因に
 就いて疑ひあり、二十一日午前十一時検事局よ
 り検事が出張検証を行った。
 2月22日(既報)築地署で急死した小林多喜二氏
 の死因につき、東京検事局吉江検事が検証した
 結果、死因は心臓麻連で拷問の疑ひなしと断定
 して死体解剖等はしない事になつた。小林多喜
 二氏の遺骸は二十一日午後九時収容中の前田病
 院から実母セキさん(61)、本家の小林一次氏他 
 プロット作家同盟の諸氏に守られて杉並区馬橋
 の小林多喜二氏の自宅に運ばれ文化連盟、作家
 同盟救援弁護士団の諸氏数名がしめやかに通夜
 を行つたが実母セキさんは涙乍らに語る。
「多喜二は今まで丈夫で子供の時から心臓病なん
 かしたことはありません。すべて帝大でとにか
 く死骸を解剖にした上のことです」。

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昭和懐古録 # 325

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・昭和10年(1935年)


☆『横綱昇進』

5月24日 武蔵山に横綱免許。
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昭和懐古録 # 140

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・昭和7年(1932年)

☆『満州国樹立』
2月5日 関東軍はハルビンを占領し、全満州をほぼ占領。
2月7日 関東軍を悩ませる馬占山を板垣征四郎参謀が説得、黒竜江省長官の地位を与えると約東、帰順させる。
2月16日 新国家建設会議。奉天省長蔵式毅、吉林省長煕浴、黒竜江省長張景恵、馬占山ら出席。
2月17日 東北行政委員会が張景恵を委員長として発足、独立宣言を発表。
2月25日 関東軍首脳の本庄繁司令官、板垣参謀らは東北行政委員会に、民本政治を政体とし、元首が執政、国号を満州国、国旗を五族(本来は辛文革命で「漢・満・蒙・蔵・”日」をさしたが、ここでは「漢・満・蒙・朝・日」の意味)協和の五色旗、年号を大同(『易経』から「天下大同」をとる)という大筋を認めさせた(3月1日にリットン
調査団が来る予定で、その前に既成事実をつくるため)。
3月1日「満州国」の建国宣言。「満蒙三千万民衆の燃ゆるが如き至誠と待望のうちに新国家
『満州国』建設の日は来た!隣邦日本の昭和七年三月一日、この日こそは、世界史上永久に記念さるべき新『満州国』の大同元年三月一日、即ち新国家『満州国』建国の第一日となった。広花七万四千方里、我が国の二倍半もある大地域、生気はつらつたる新『満州国』は生れたのだ」(東京朝
日)。首都は満鉄終点の長春を新京と改名して定めた。
3月9日「清朝の復辟」を夢見ていた愛親覚羅薄儀の執権就任式。関東軍司令官、満鉄総裁や「五族」代表二百人が参加。
3・12犬養内閣は「満州問題処理方針要綱」
を閣議決定(「満蒙は中国本部の政権から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次、国家としての実質を具えるよう誘導する」方針)。
4・2第八・第十両師団の満州派遣を決定。
6・14 衆議院、満州国承認決議を満場一致で可決。
9.15 日満議定書調印(日本が満州国を承認。国際的な非難を浴びる)。同時に交換された往復文書では、関東軍司令官が満州国官吏を任免できる、防衛治安維持費は満州国が負担、鉄道・港湾・水路などは日本の管理権を認める、などが確認。
9・27 ハイラル・満州里地方の蘇柄文軍が反乱、
国境警備隊員など在留日本人数百人を監禁(12・5 救出)。
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昭和懐古録 # 88

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・昭和5年(1930年)

☆『話題の邦画』

3月14日 日活、部分トーキー、「ふるさと」(監督 溝口健二 主演 藤原義江、夏川静江)封切り。
何が彼女をさうさせたか(日本トーキー、帝
キネ/鈴木重吉 田高津慶子、小島洋々)フレーム1、2 枚目。
大都会・労働篇(日本トーキー 松竹/牛原虚彦 鈴木伝明、田中絹代)。
唐人お吉(日活/ 溝口健二 山本嘉一、島耕二、梅村春子)。フレーム3枚目。
この太陽(日活/村田実 小杉勇、島耕二、夏川静江、入江たか子)。
お嬢さん(松竹/監小津安二郎 岡田時彦、意藤達雄、栗島すみ子、田中網代)。フレーム4、5、6枚目。
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昭和懐古録 # 359

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☆『十二歳のオリンピック選手』

11月18日 大阪管南小学校六年の稲田悦子ちゃん
(12)が、明春二月ガルミッシュ(ドイツ)で開
催の第四回冬季オリンピックの女子フィギュア
スケートの日本代表選手となる。悦ちゃんいわ
く、「うちなア、ソニア・ヘニー姉ちゃん
(当時の銀盤の女王)だけが怖いんや」。
11年2・12 一位ソニア・ヘニー、悦ちゃんは十
四位。
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昭和懐古録 # 343

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・昭和10年(1935年)

☆『凶作地子女身売防止運動』

8月 愛国婦人会、婦人矯風会、真宗婦人会合同
の東北凶作地子女身売防止運動は現在でも継続
してゐるが、昨年十月開始以来現在までの成績
をきくに、救済された子女実に一千三十四名の
多数に上ってゐる。貸付金額は総計
五万二千二百余円であるが府県別にすると、
岩手二百三十七名(八千九百円)山形県二百二
名(一万一千二百円)青森百六十三名(七千三
百七十円)宮城百五十二名(一万一千円)福
島九十八名(三千三百五十円)秋田百五十名
(七千五百円)新潟二十四名(二千円)となつ
てゐる。この運動に刺激された、めか、その後長
崎、福岡、愛知、愛媛等でも同様の救済運動が
開始されてゐる。(国民新聞)

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昭和懐古録 # 383

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・昭和11年(1936年)

☆『東京に空気検査係』

1月12日 昨年末、警視庁衛生部は世界で一番空
気が汚いといわれる東京の映画館、ダンスホー
ル、デパート、地下鉄などを調査した。その結
果、ダンスホール、映画館の順で汚染されてい
ることがわかり、市民の保健衛生上、昭和十一
年度から空気検査係の専任技術官を置き、空気
の取り締まりを実施することになった。また本
年四月以降の新築については換気装置、暖房、
保温装置などは空気検査係の許可が必要で、既
存の建築は空気装置の設備をさせ、暖房、保温
などの設備を改良するよう指導していく方針。
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昭和懐古録 # 335

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・昭和10年(1935年)

☆『第一次巨人軍米国遠征からの帰国』

7月16日 日米スポーツ交歓に偉大な貢献をなし
わが日本職業野球団として最初の米国遠征に百
十戦七十五勝一引分の輝かしい戦績をお土産と
する大日本東京野球倶楽部(東京巨人軍)市岡
監督、三宅助監督、鈴木マネージャー、二出川
主将以下選手等一行二十名は郵船秩父丸で今日
午後二時恙なく歓呼沸く懐しの横浜埠頭に半歳
ぶりの元気な帰朝第一歩を印した。(読売)



※ ホワイトハウス前での記念スナップ
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昭和懐古録 # 389

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・昭和11年(1936年)

☆『二・二六事件 .2』

二、戦時管備の目的は兵力を以て重要物件を警
備し、併せて一般の治安を維持するにあ
り。
三、目下治安は維持せられあるを以て一般市民
は安堵して各その業務に従事せらるべし。
午後10時=首相官邸で軍事参議官七名と青年将
校の代表六名との会見が始まる。話は進まな
い。荒木大将以下の軍事参議官らは「陛下二
ハ、二、三十分毎二御召アリ、事変ノ成行キラ
御下間アリ、且ツ、鎮圧方督促アラセラ
ル」(『本庄日記』)を知って方針の修正を迫
られていたからだ。11時20分=宮中で枢密院
会議が開かれ、緊急勅令による戒厳令の制定と
公布が決まる。
2月27日 午前2時20分=戒厳令室告、戒厳司令
官には東京警備司令官の香椎中将が任命され
た。が、「勅命ニ抗スル者二対シテハ断乎タル
処置二出デントス」「反乱部隊ヲ掃蕩スベシ」
(「戒作命第四号」)は「命令案」のままで、
「二十六日朝出動セシ将校以下ハ第一師団麹町
地区警備隊長小藤大佐ノ指揮下二在リテ行動ス
ベシ 戒厳司令官香椎浩平」(「戒作命第七号」
27日午後7時)の処置が夜明け前に青年将校に伝
えられる。青年将校の部隊はこんどは「戒厳」
部隊になった。青年将校の「戒厳」部隊は参謀
本部、陸軍省、首相官邸、山王ホテルなどを占
拠しつづける。午前10時30分ごろ=近衛師団が
半蔵門、赤坂見附を結ぶ線、第一師団が赤坂見
附、福吉町、虎の門、日比谷公園を結ぶ線に配
置された。軍中央部は事態の収拾に腐心。そこ
で「命令戒厳司令官ハ三宅坂附近ヲ占拠シアル
将校以下ヲシテ速二現姿勢ラ撤シ各所属師団長
ノ隷下二復帰セシムベシ昭和十一年二月二八日
奉勅参謀総長載仁親王」の「奉勅命令」を用意
する。午後=陸相官邸で真崎、阿部、西軍事参
議官と青年将校十八人が会談。
2月28日 午前8時ごろ=奉勅命令は下達されな
いが、それが青年将校に伝わり、陸相官邸では
「奉勅命令は偽なり」と大騒ぎになる。10時30
分、香椎戒司令官はつぎの発表をする。
一、昨二十六日早朝騒援を起し数百名の部隊は目
下麹町区永田町附近に位置しあるも之に対し
ては我戒厳司令官に於て適応の措置を講じつ
>あり。
二、前項部隊以外の戒厳司令官隷下の軍隊は、
陛下の大命を奉じて行動しつ>ありて軍規厳正
志気ホ盛なり。
三、東京市内も麹町区永田町附近の一小部分以外
は平静なり、又其他の全国各地は何等の変化
なく平穏なり。
午後1時=「川島陸相及山下奉文少将、武官府二
来り、行動将校一同ハ大臣官邸ニアリテ自刃罪
ラ謝シ、下士官以下八原隊二復帰セシム、就テ
ハ、勅使ラ賜ハリ死出ノ栄光フ与へラレタシ、
此以外解決ノ手段ナシ」とのことを本庄は天皇
に伝奏すると「陛下二ハ、非常ナル御不満テ、
自殺スルナラバ隣手二為スベク、此ノ如キモノ
ニ勅使杯、以テノ外ナリト仰セラレ、又、師団
長が積極的二出ジル能ハズトスルハ、自ラノ責
任ヲ解セザルモノナリト、未ダ営テ拝セザル御
気色ニテ、厳貴アラセラレ、直チニ鎮定スベク
達セョト厳命ラ夢ル」。軍中央部の説得にもか
かわらず青年将校は自刃しない。
午後6時=「小藤大佐ハ戒作命第七号二依ル将校
以下ヲ 自今指揮スル二及バズ」(「作命第十二
号」)が下達される。ここに「反乱軍」と
なる。
2月29日 早朝より東京市内近郊の交通機関はす
べて運転中止。戒厳司令部はラジオ放送で状況
や指示を市民に伝達。さらに、戒厳司令部は反
乱部隊に強行解決の準備をし、ビラとラジオ放
送で帰順を勧めた。

ラヂオ放送
兵に告ぐ
勅命が発せられたのである。既に天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶対服従して誠心誠意活動して来たのであらうが既に天皇陛下の御命令によってお前達は皆復帰せよと仰せられたのである。此上お前達が飽く迄も抵抗したならば夫は勅命に反抗することになり逆賊とならなければならない。(中略)今からでも決して遅くはないから直に抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ。さうしたら今までの罪を許されるのである。お前達の父兄は勿論のこと国民全体もそれを心から祈つて居るのである。速やかに現在の位置を棄てて帰つて来い。
戒厳司令官香椎中将

午前9時=参謀本部付近の反乱軍は全員整列して
宮城を拝し君が代をラッパで吹奏。午前9時30分
参謀本部前の反乱軍の武装解除から始まり、午
後2時までに下土官以下全員が帰順。山本又予備
歩兵少尉を除く反乱軍将校は陸相官邸に集合し
協議、野中四郎大尉と河野寿大尉が自決、他の
十八人の将校は夕刻東京衛戌刑務所に収容(山
本少尉は三月四日東京憲兵隊に自首)。
3月4日 近衛文麿に組閣命令が下るも辞退。
3月5日 広田弘毅に組閣命令。
3月6日 陸相候補寺内寿一は自由主義的色彩の
入閣予定者の排除を要求し組閣に干渉。
3月9日 広田弘毅内閣成立。
3月10日 戒厳司令部は北一輝、西田税の逮捕を
発表。
4月21日 相沢中佐に対する公判が更改開延。
5月7日 相沢中佐に死刑判決(6月30日 上告棄
却)。二・二六事件関係者は非公開で代々木練
兵場に仮設した東京陸軍軍法会議法廷で元将校
組、下土官組二班、牧野伯襲撃組、兵組の五班
に分離進められており、この日から下士官らに
対する求刑が行われた。
5月31日 相沢中佐は宇垣以下三月事件関係者全
員を告発。告発状は匂坂春平検察官にあてて提
出。その後、相沢は「真崎閣下は俺を助けてや
ると言った。なぜおれを殺すのだ」と叫んで暴
れ出したことがある。
6月 磯部は獄中から叛乱助の告発状を出すが、そ
こには陸軍大将真崎甚三郎、荒木貞夫、阿部信
行、川島義之、陸軍中将香椎浩平、古荘幹郎、
堀丈夫、陸軍少将山下奉文、陸軍大佐村上啓
作、鈴木貞一、西村琢磨、小藤恵、橋本成五郎
らの名がある。
7月2日 相沢は公判廷でも言わなかった真崎大
将から教唆されたことを包坂検察官に告白。
7月3日 相沢中佐死刑執行。
7月5日 二 ・二六事件関係、死刑十七人、無期
五人、有期禁錮刑五十四人(相沢中佐の特別弁
護人満井中佐は禁錮三年、内執行猫予三人)、
無罪 四十七人の判決。
7月12日 民間人の村中、磯部を除く十五人の死
刑執行。
7月18日 東京市の戒厳令解除。
7月29日 反乱軍と関係があった(鹿児島、青
森、名古屋、朝鮮、関東軍)検挙者のうち山内
一太郎元大尉以下六人に無期から四年の禁錮の
判決(それ以外の大部分が求刑のみで翌十二年
に判決)。
12月20日 匂坂法務官は真崎大将に関する意見
書で「不起訴処分」との結論。
12月21日 匂坂法務官は香椎中将についての意
見書で「予審請求の必要あり」(起訴の前提)と
する。
12年1月7日 真崎大将「反乱者ヲ利ス」と起
訴。
1月15日 香椎中将は不起訴処分(告知)
1月30日 小藤大佐不起訴。→
8月14日 北一輝、西田税に死刑の判決。
8月17日 陸軍高等軍法会議の検察官から杉山元
陸軍大臣に「告発事件捜査中止ニ関スル件何」
提出。被告人は宇垣一成、小磯国昭、建川美
次、重藤千秋、橋本欣五郎、長勇、田中隆吉、
花谷正、馬奈木敬信の三月事件関係者である。
「本件は之が捜査を中止し然るべきもの」とな
る。同日、包坂検察官から杉山陸相に「捜査報
告」を提出。「被告人、荒木貞夫、阿部信行、
川島義之、古茫幹郎、堀丈夫、安井藤治、山下
奉文、村上啓作、鈴木貞一、西村琢磨、橋本
欣五郎、馬奈木敬信 罪名各反乱帮助」。しかし
結論は「告知」不起訴となる。
8月19日 磯部浅一、村中孝次、北一輝、西田税
の死刑執行。
9月25日 真崎甚三郎に無罪の判決。
13年1月10日 包坂春平検察官は関東軍法務官に
転出。
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昭和懐古録  ♯ 388

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・昭和11年(1936年)

☆『二・二六事件 # 1』

1月28日 第一師団司令部軍法会議法廷で、永田
鉄山軍務局長(統制派)を斬殺した相沢三郎中
佐(皇道派)の第一回公判開廷(二・二六事件
突発の前日まで十回開廷)。相沢中佐は「永田
局長閣下は悪魔の総司令部であると思い、大逆
の枢軸を殲滅して昭和維新の大業を翼賛し奉ろ
うと思った」と陳述。第二回公判で満井中佐特
別弁護人は「相沢中佐の背後には全軍将校の昭
和維新の気概横溢して犇々(ほんほん)と迫りつつ
ある。一度本事件の措置を誤らば、第二、第三
の相沢三郎継すべし・・・・・自分は首脳部に
意見を具申したが容れらず、不安を一掃するこ
とが出来ず爆弾を抱いてこの公判に臨んでい
る」と陳述。
2月7日 糖沢弁護人は政友会を離脱する声明書
を発表。
2月12日 第六回公判で事件当時の陸軍次官橋本
虎之助中将、古荘陸軍次官、堀第一師団長を証
人喚問、「軍事上の利益を害するおそれあるに
より公開禁止」となり速記のない訊問が一時
間。
2月17日 林銑+郎前陸相(統制派)を証人訊
問、公開禁止。
2月18日 前年十二月、近々満州派遣の旨が伝え
られた第一師団の安藤輝三と軍籍追放の村中孝
次、磯部浅一ら皇道派背年将校がクーデターの
具体案を決定。
2月21日 「地震で大阪の商工街全滅」のデマ
(小さな地震があった)。さらに「統制派の真崎
総監罷免は、第二の統師権干犯」との怪文書が
流れる。
2月25日 前教育総監真崎甚三郎大将(皇道派)
を弁護側証人として喚問、公開禁止。真崎大将
は勅許がなければ機密事項の証言はできないと
の立場。さらに満井特別弁護人は三井合名常務
理事池田成彬氏、木戸幸一侯ら六人を証人申
請。池田氏らが故永田中将らと「朝飯会」を組
織、「重臣は君側に奉仕の特権を濫用し統帥権
干犯の常習犯」が理由。公開禁止を予測して傍
聴希望人は十人と一番少なく、極度の緊張を
迎えていた。
2月26日 午前0時~3時30分=第一師団歩兵第
一連隊の二個中隊、歩兵第三連隊の四個中隊な
どで非常呼集。4時30分=将校二〇人、見習士官
三人をふくむ準士官五人、下士官八九一人、兵
一三六〇人、その他九人、計一四八三人が麻布
の兵営を出発。5時ごろ=首相官邸岡田啓介首相
襲撃(義弟の秘書官松尾伝蔵歩兵大佐を岡田首
相と間違えて殺害。岡田首相は逃れる)。斎藤
実内大臣(海軍大将)私邸で殺害。高橋是清大
蔵大臣私邸で殺害。鈴木貫太郎侍従長官邸で重
傷。渡辺錠太郎教育総監私邸で殺害。牧野伸顕
前内大臣滞在中の湯河原伊藤屋旅館別館で負
傷。東京朝日新聞社襲撃。同時に陸相官邸と
警視庁を占拠、襲撃を終えた「蹶起」部隊は陸
軍省、参謀本部のある三宅坂、赤坂、溜池一帯
を剣付鉄砲や機関銃で交通遮断した。陸相官邸
には香田清貞大尉、丹生誠忠中尉のほか山本又
予備歩兵少尉(「十一月二十日事件」で不起訴
だが停職となり、三月事件、十月事件の真相を
暴く「粛軍ニ関スル意見書」を印刷配布し免官
=軍籍追放となった)、磯部浅一、村中孝次ら
が陣取った。香田大尉、栗原安秀中尉、村中の
三人は川島義之陸相に面会を強要し、「蹶起
趣意書」を期読。この後、「陸軍大臣に対する
希望事項」を述べ、そこに荒木貞夫大将を関東
軍司令官に推薦すること、真崎甚三郎大将と
侍従武官長本庄繁大将をこの場に呼ぶことなど
を要求。さらに川島陸相と青年将校とのあいだ
に戒厳布告、昭和維新の大語などについて天皇
の裁可を受ける約束があったとされる。午前
7時=東京警備司令部は香椎浩平司令官の名で
「第一師団ハ速二安藤大尉以下ヲ解放セシムル
如ク努ムベシ」(「東作命第一号」)を出す
が、これは下達されず宙に浮く。17時30分=
「東響作命第二号」が出され「近衛師団ハ速
二兵力出動ノ準備ヲナシ後命ヲ待ツベシ」と
ある。7時50分=真崎大将、陸相官邸着。8時20
分=陸軍省軍事調査部長山下奉文少将陸相官邸
着。9時20分ごろ=石原莞爾大佐、陸相官邸着。
9時30分ごろ=岩倉少佐、磯部に陸相官邸玄関で
狙撃される。真崎大将、伏見宮邸へ向かい官邸
出発。川島陸相、参内のため官邸出発。10時17
分=川島陸相参内。「何等意見ヲ加ウルコトナ
ク単二情況(青年将校蹶起趣意書ヲ付ケ加ェ朗
読申上ゲタリ)ヲ申述べ、斯ル事件ヲ出来シ、
誠二恐懼二堪エザル旨ラ奏上ス。之ニ対シ、陛
下ハ速二事件ラ鎮定スベク御沙汰アラセラル」
(『本庄日記』)。10時40分=山下奉文少将、戒
厳令を研究すべく警備司令官香椎中将に伝え
る。10時50分。後々問題となる「陸軍大臣告
示」が近衛師団に下達される。これによれば、
「一、蹶起ノ趣旨=就テハ天聴ニ達セラレアり。
二、諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情二基クモノ
ト認ム。・・・・・・五、之以外ハーツニ 大御
心ニ俟ツ」とある。12時27分=香椎中将参内
(山下少将同行)。
12時30分 宮中で非公式軍事参議官会議開か
れ、陸軍大臣告示の内容について論議があった
とされる。午後1時~2時=電話の盗聴で北一輝
が青年将校を緻励、給養や金を心配したことを
記録される。3時=さきに近衛師団に下達した
「陸軍大臣告示」と「軍隊ニ対スル告示」(香
椎司令官)が下達された。また「東管作命第三
号」発令。こに「第一師団長八本朝来行動シツ
ツアル軍隊フモ含メ昭和十年度戦時管備計画書
二基キ所要ノ方面ラ管備シ治安ノ維持二任ズベ
シ」とあり、「蹶起」部隊は第一師団長の指揮
下での正規軍となる。地方では、軍中央が「蹶
起」を正当行為と認めたと判断し、対応する。 .
弘前の第八師団に勤務していた秩父宮は、第八
師団長にあてた「進言」の「速二上京至尊(天
皇) ヲ翼賛シ奉ラレ度」にしたがい夜上京の途
につく。一方、皇居では陸軍中央部の対応の優
柔不断ぶりについて、「朕が股肱の老臣を殺戮
す、此の如き暴の将校等、何の想すべきものあ
りや」と天皇が激怒していた。こうした動きを
民間人は知るはずもなく、各方面で重臣が暗殺
されたなどの流言が飛んだ。その夜、帝都各劇
場、映画館は一斉に閉場となり、午後七時東京
警備司令部はつぎのラジオ放送を行った。
一、本日午後三時第一師団戦時管備を
下命せらる。

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ハシオキ龍之介

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昭和懐古録 # 387

#グラビティ昭和部


・昭和11年(1936年)


☆『1月31日 男女ノ川に横網免許。』
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昭和懐古録 # 386

#グラビティ昭和部


・昭和11年(1936年)

☆『芸妓や女優の豆まき禁止』

1月25日 来る二月四日の節分をひかへて帝都吉
例の「モダン豆撒き」の祭典が文部当局の「宗
教関正」の槍玉に上り「映画女優や芸者、レビ
ュー・ガールの出演は絶対罷りならぬ」ときつ
いお達しで豪華な狂色を掻き消す事になつた。
「豆撒き」がかうも俗化し堕落しては捨てて置
けぬと宗教取締の元締、文部省宗教局がツムヂ
を曲げたのも無理もない。早速宗務課長橋本鶴
太郎氏は数日前、各宗本山に対して「宗教上の
教化の目的に反する豆撒きの余興は本年から慎
んで貰ひたい」と内示の形式で取締を申渡し
た。(東京朝日)
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昭和懐古録 # 385

#グラビティ昭和部


・昭和11年(1936年)

☆『救急一一九番』

1月20日 警視庁消防部の救急自動車が業務を開始。丸の内、品川、麹町、大塚、荒川、城東の各消防署に各一台配置された。救急電話の「ーー
九」番が始まり、百七十三の救急病院が指定された。これは東京府の交通事故約二万件、死者四百人に対応するため。
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昭和懐古録 # 382

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・昭和10年(1935年)

☆『冥友録 .3』

1月13日 アルフレッド・ドレフュス(75)
フランスのユダヤ系軍人。一八九四年軍機漏洩
の嫌疑で終身刑に処せられる(ドレフュス事
件)が、有罪判決への疑惑が左翼運動と共に疑
惑が拡がり九八年ゾラが再審要求の抗議文を発
表するに及んで文化人を巻き込んだ社会問題に
発展。反ユダヤ主義者、国家主義者等が再審反
対を唱え、フランス国内は一時期二派に分裂。
九九年の恩赦を経て一九〇六年無罪確定。

1月19日 杉山茂丸(73) 政治浪人。元治元年
福岡県生まれ。十三歳でルソー「民約論」を読
み上京、政治活動へ。明治十八年頭山満を知
り、二十二年大隈重信外相襲撃に関係、投獄。
 後に伊族博文、山県有朋らと親交を結び、南満
 州鉄道会社創立、日韓併合などの裏面で暗躍。
官途の誘いに応ぜず生浪人。小説家夢野久作の
父。

8月15日 ポール・シニヤック(71) パリで
死去。フランスの画家。一八六三年同地に生ま
れる。スーラと共に新印象主義の代表的存在。
理論家としてもすぐれ「ドラクロワから新印象
主義まで』という重要な著作を残した。
8月30日 アンリ・バルビュス(71)モスクワで
客死。フランスの詩人、小説家。一八七三年ア
ニエールに生まれる。九五年詩集『泣く女た
ち』を刊行。一九〇八年自然主義的手法による
小説「地獄」が注目され、第一次世界大戦従軍
による生々しい体験とリアルな表現が結びつい
た一六年の作品「砲火』でゴンクール賞を受
賞。一九年『クラルテ」で社会主義へと接近し
「クラルテ運動」を展開。二三年共産党に入党
し実践的活動へと踏み込んでいった。

9月2日 藤牧義夫(24) 行方不明。版画家。明
治四十四年群馬県館林生まれ。大正十五年上
京。図案工房につとめるかたわら木版画を独
習。昭和七年新版画集団の結成に参加し作品を
発表、帝展、国画会展に入選。十年東京神田の
東京堂画廊で個展を開き、注目される。前年よ
り葛飾北斎の「隅田川両岸一覧」に触発され描
きはじめた版画のための写生図巻「隅田川絵
巻」(3巻)完成後、九月二日消息を絶った。九
年作の「赤陽」など東京下町の都会風景を描い
た木版画は、荒けずりの線と直情的表現で異色
である。

12月31日 寺田寅彦(57) 物理学者、随筆家。
明治十一年東京生まれ。理学博士、東大教授。
日常身辺の現象を研究対象とし地球物理学など
物理学のあらゆる分野に関心をもった。五高時
代に夏目漱石に教わり、明治三十八年漱石宅の
文章会に参加、「ホトトギス」に俳句や随筆を
発表、漱石門下となる。『吾輩は猫である」の
寒月、「三四郎」の野々宮は寅彦がモデルとい
われる。『冬彦集』「像の実」など多数の随筆
集は吉村冬彦名で人間や小動物を科学者らしく
描出。
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