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ヲレだけを見てろよ✨
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フラミンゴ伊藤
俺は大分県民で、この問題になってる土地にちょっとだけ近いところに住んでる。
別に外国人の方たちには負の感情はない。観光で来た人が多少ハメを外すのも理解は出来る(多少ね)し、働いている人や勉強しに来ている人には尊敬の念すらある。
俺がアメリカ行ってコンビニでバイトしろなんて言われたら絶対無理だから。
でもやっぱり土葬墓地が近くに出来るのは、衛生面とか水源がーとかそういう事もあるけれど、正直『何で後から来た、そこに住んでもない人達がそんなに権利を声高に主張するの?』という事が一番引っかかってる。
外国で、その国で理解されない日本の習慣をゴリ押ししたら普通に嫌がられるんじゃないのか?
そして、ひとつ認めると後はなし崩し的に全て認めざるを得なくなるのではないか、という漠然とした不安。
俺は信じてる宗教もないし、そもそも死んだら墓なんていらねーよどっかその辺か海に撒いてくれ派だから、余計理解できないのもあるのかな。
『これまでの慣習と違い過ぎて嫌悪感があるから受け入れられない』というのは、差別なのだろうか。差別なんだろうな…
げんぞう
無事に登って欲しいです。


臼井優
彼らに関する主な歴史的事実や特徴は以下の通りです。
結成の経緯と目的:関ヶ原の戦いで、徳川家康に通じていた教如上人が西軍に追われる身となった際、大垣周辺の光顕寺(安八町森部)を拠点とした門徒たちが、上人を保護し、西軍の追手から守るために組織しました。
「土手」の由来:当時の安八郡周辺は度重なる水害に見舞われており、村人が結束して土手を築くなど防御意識が高かったことや、村人たちが土手筋に身を潜めて教如を隠し守ったエピソードに由来するとされています。
武装と戦闘:彼らは単なる農民の集まりではなく、信仰に基づく団結力を持った武装農民(門徒)であり、約80名強で構成されていたと伝えられています。石田三成の軍勢に囲まれた際は、死をも恐れず果敢に立ち向かいました。
犠牲と功績:激しい追跡の中で教如上人を岩窟(現在の教如岩・鉈ヶ岩)などに隠して命を繋ぎ、最終的に上人は危機を脱しましたが、土手組のメンバーのうち19名が戦闘により落命するという多大な犠牲を払いました。
後世への継承:安八町の光顕寺近くには、教如上人を守って亡くなった土手組門徒たちの供養塔が建てられており、その歴史が地域に伝えられています。
関ヶ原の合戦という武士の政権争いの陰で、民衆が独自の信念に基づいて行動した「もう一つの関ヶ原」として評価されています。

おやすみん

🌚🫎🌝

いるちゃん

t
日曜日はいつも寝不足、しゃーないです!
これから準備して実家に車返しに行ってから先輩と飲みに行きます🫡
よく考えたら先輩明日休み、CT検査だったんだー😱
ある程度は付き合うけど後は知らん!
そこはちゃんと線引できるはず、私にはキツく言わないので。
ただ「かえるの🥺」寂しそうな顔されますけどね[泣き笑い]
それでは皆さんはよい1日お過ごしください✨
それでは飲んできまーーーす🍻

臼井優
この功績で教如は家康から厚遇され、現在の東本願寺に繋がる礎を築きました。
教如と関ヶ原の戦いにおける主なエピソードは以下の通りです。
徳川支持と三成の逆襲
教如は石山合戦で信長と戦った父・顕如の長男ですが、後に家康に接近。1600年、家康が上杉征伐(小山会議)に向かう際に面会し、浄土真宗(一向宗)が徳川方を支持することを表明しました。
これを知った石田三成は激怒し、教如の暗殺指令を出しました。
森部での危機と「土手組」
関東からの戻り道、美濃国安八郡森部村(現在の安八町)付近で三成の軍勢に襲撃された教如は、付近の光顕寺に逃げ込みました。
教如を救ったのは地元の門徒27人衆で、後に彼らは家康から直参(直属)の待遇を受け、「土手組」と称されました。
逃避行と最終的な勝利
教如は偽の身代わりを立てるなどして、国見峠を経由して京都へ避難しました。
戦後、教如は大津御坊で家康を迎え、この功績と協力関係により、教如の率いる「東本願寺」が確立されました。
この出来事は、織田信長・豊臣秀吉と敵対した一向一揆の残影が残る中、本願寺が生き残りをかけて徳川に賭けた、もう一つの「関ヶ原」の物語といえます。
とも
今朝は少し遅い目覚めとなり、日の出前のビーナスベルトは見れませんでしたので…ある程度太陽が高くなった朝の空を撮影しました[ほっとする]
今日は昨日より気温が低くなるとの予報ですが…どうなるでしょうかね〜[穏やか]
日曜日の今日も良い1日になりますように🍀
#今朝の空



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