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ラビッ兎

ラビッ兎

正に、我こそが知を統べる者であるとでも言わんとする程に、実に尊大な、いや、自虐的な名を自らに冠した、哀れな生物がいる。

他ならぬ、万物の霊長たる、我々人類である。

然し乍ら、冒頭で自虐的であると述べた通り、私達が他の生命に勝ると豪語している知とは、果たして知たり得るのかという根源的な問いについては、この傲慢な人類の態度においてはその一切を無視しており、私達は、世界や自己に対して何を知り得るのかについて問わずして、知を語り、それを権威とする事は凡そ望ましくはない。

それは、知を語る者の無知の宣言である。

人生という永遠の孤独の中で、それが例えば他者についてや、存在意義、或いは胸の内の苦悩や、置かれた環境や状況における最善の選択とは何かなど、如何に些細な事柄であろうとも、その真実とは何なのかと真理を志向し、思考し生きているのが私達であるが、導き出された真理とは、果たして、それが真理であるという真実は真実たり得るというのだろうか。

言い換えるならば、知るということについて疑問を抱く事はなく認められている知るというものは、何処迄、真理を捉え得るのか。

つまり、私達は何を知り得るのかについてである。

例えば、コペルニクスは当時、真理と見做され、公共的に認められていた天動説という真実を覆し、地球を動かした。
これは、私達が知ったと思われる真理が実際は真実という公共的な信念であり、真理ではなかった一例といえるだろう。

真理とは客観的な真実として一般的に語られるが、真理と真実の同一視は虚偽である。

厳密には、真理は客観的な真実であるが、この客観的について主観的であってはならないし、公共的に合意されることと客観性とは、こと真理についての言及であれば厳密に区別されねばならない。

従って、次のように定義を改めるべきである。

私達が真理と見做す知とは、私達の主観的な信念が公共的な承認により築き上げられた客観的(客観的とはいうものの、その本質とは観測に依存してる以上はその基盤とは明らかに主観であり、この場では客観的という語について公共的に合意された事柄であるとする)な真実であって、現象として成立した現象界における事態にまつわる真実に過ぎない。

とりわけ、認識や思考に先立つ最も純粋かつ普遍的な真実こそが真理であるが、私達は、思考において経験された過去を用いてのみでしか思考は出来ず、純粋にそれについて考える事は出来ないし、また、思考する上で、認識による現象についての主観的な歪みから逃れる事は出来ない。

認識によって現象として像を捉えることしか出来ない私達は認識の形式を超えて現象の原因であるカント的物自体については知り得ない。

即ち、純粋に在るがままに在るものとして認知出来ない私達にそれが真であるとする知そのものの根拠すら見出せないのである。

或いは、どれほど美しい論理を生み出したとして、それがいかに真実と認められるものであろうとも、究極的には、その論理は自らの論理が何故正しく成立するのかについては、言語である論理は言語の枠組みを超えて根本原因を語る事は出来ないのである。論理においてはウィトゲンシュタイン的沈黙を超えて語る事は出来ないのである。

故に、私達は、知を語りながら、私達は何を知り得るのかと言う命題については目を逸らし、真実と真理の峻別を付けず、これこそが真理であると語り、知ある者として振る舞うが、私達が一般的に真理とするものは公共的な信念に過ぎないのであるならば、少しばかりは知に謙虚になれるはずである。

然し乍ら、真理と真実の区別について語る上で、避けることの出来ない耐え難い疑念が現れる。

それは、知的探究が無意味で無価値なのか。という問いである。
然し、これについては、沈黙すべきである。

真理とは先立つものであり、意味や価値のような観念で捉える事は出来ないのである。意味や価値とは前提として観念であり、世界とは虚無であって、そこに意味や価値を見出し創造するのは他ならぬ実存体としての私達の仕事であろう。

私達は真理に至る事は出来ないが、むしろ、それでこそ知を愛せる。それでこそ、追い求めるに値するのである。

真実を追求する知の探究とは、辿り着くことのない真理への恋慕の衝動であり、無知への根源的な不安との闘争であり、故に、我々は無知の知を知るが故に、深淵を覗き込み、言い表せないそれについて思いを馳せるのである。

但し、真理探究に対する肯定とは、あくまで観念論である以上、私の主観的な承認であり、認識や言語、観念に先立つものについてそれ自体が意味や価値を持つわけではない事は明らかであるといえよう。

然し、この愛とも思える渇望の心をどうして主観的との言葉で切り捨てることが出来ようか。

辿り着くことの出来ない、正に深淵たる世界の根本原因である真理の探究とは、私達が経験し得る最も情熱的なロマンチシズムである。

それが、仮に容易に到達出来るものであったならば、途方もなく長い時の中で、飽くなき探究心に駆り立てられ学問という歴史を人類が築き上げること成し得なかっただろう。

私達は、古代より現代に至るまで、真理という底知れぬ深淵を覗き込み、終わりなき真実を索る旅人であり、自らの無知を知る者だけが、何処迄も深く思索の奈落に落ちてゆくことが出来るのである。

故に、無知を知る者こそ知を語るに相応しく。また最も知に近づいた者こそ無知な者なのである。

かくして、私達は真実の創造と破壊を繰り返しながら、大理石からより精巧な知という信念体系を削り出し、真理への接近を試みてきたのだ。

それは、恋焦がれて止まない想い人と逢えない苦悩する者が、少しでもその心を満たそうと、肖像画を描いては破り捨て、より写実的な姿をキャンパスに納めようとするような、実に人間的な営みである。

然し、額縁に納められたその姿は、絵画の範疇を超えて、彼女本人となる事はなく、この不条理を知りながら、それでも彼女を得ようと追求する愚かさとは、それこそが正に人間的な、時に醜い執着心ともいえる美しさに他ならないのである。

おお、ソクラテスよ。無知故の、この胸の内に止めどなく湧き上がる知への愛こそ、正に哲学でありましょう。

無知の知とは、存在するという不条理の中で、人間の知り得る最も根源的かつ本質的な真実であるといえよう。

人間とは、知にまつわる生き物ではなく、信念の生き物なのである。
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