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Hino

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​「人のために」という言葉を口にするとき、私たちは本当に純粋な思いやりだけで動くことが可能だろうか。その美名の下には、他者からの承認を渇望する自己愛や、罪悪感から逃れようとして行う自己満足、すなわち「利己的な動機」が不可避的に混在しているのではないか。

​道徳哲学の世界では、しばしば動機の純粋性が問われる。カント的な厳格主義の視点を採用するならば、自らの満足や評判を目的とした行為は、道徳的価値を欠いた「偽善」の範疇に組み込まれるだろう。
しかし、現実に目を向ければ、この世界はそうした「不純な優しさ」によって構造的に支えられていることに気づかざるを得ない。

​ここで重要なのは、個人の内面における「動機の不純さ」と、社会に表出する「行為の有用性」を切り分けて考える視点である。結果としての幸福を重視する「功利主義的」な観点から見れば、行為者の内的な動機が自己愛に基づいていたとしても、その結果として他者の苦痛が軽減され、幸福が総計的に増大するのであれば、その行為は社会的に正当化される。むしろ、実効性を伴わない純粋な善意よりも、他者の期待を計算に入れ、社会の要請に応えようとする「偽善」という名の機能的な配慮こそが、文明を維持するための高度な戦略であるとさえ言えるだろう。

​もし、すべての行為に純粋無垢な善意を求めるならば、人間社会の相互扶助は機能しなくなり、冷淡な無関心へ変化してしまうだろう。
結局のところ、世界は偽善という「利己性を利他性へと変換するシステム」によって成立している。

​偽善とは単なる欺瞞なのではなく、自己の欲望を他者の利益へと接続させるための一種の理性的な妥協、あるいは「洗練された生存戦略」なのかもしれない。
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コメント

よん

よん

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拝読させていただきました。 ※先にお伝え致しますが、批判ではありません 需要と供給は一致しているかのように見えますし、利己的な動機からの行為が生じなければ福祉も追いつかないと思います。 しかし深いところで見ると、自らの「偽善」「欺瞞」に気付かずに「それ」を達成する為に必要な対象と見立て、絶妙な支配が行われることもあります。(無意識に相手の自立を妨げるなど) 「人のために」と思うたびに、動機について深く考えます。

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​「人のために」という言葉を口にするとき、私たちは本当に純粋な思いやりだけで動くことが可能だろうか。その美名の下には、他者からの承認を渇望する自己愛や、罪悪感から逃れようとして行う自己満足、すなわち「利己的な動機」が不可避的に混在しているのではないか。