投稿

HSPHSC Plus+
ご相談ありがとうございます。
電車の中などの不特定多数がいる場所でも、会話に気をつかうのですね。
その配慮、とても素晴らしいと思います。どんな人であろうが、居心地のいい空間を作っていこうとする気持ちは本当に尊いです。
その分、自分に負荷がかかってしまって、疲れるのも事実だと思います。
こんな風に考えてみたら、如何でしょうか。
人はそれぞれ、自分の感情に責任を持っていると。
相手の感情、気持ちは相手の問題です。
同じような会話をしても、傷つく人もいれば、そうでない人もいます。
同じ「わたし」が同じ「ことば」を発しても、傷つくかどうかは相手の次第です。
そう考えると「わたし」がどんな配慮しても、傷つく可能性はあるわけです。
そして、相手が何に反応して傷つくかまで、「わたし」はコントロールできません。
であれば、このコントロール、配慮を手放したほうが、いいかもしれません。
大好きな一文をここに紹介しておきます。
「ゲシュタルトの祈り」フレデリック・パールズ
私は私のために生き、あなたはあなたのために生きている。
私はあなたの期待に応えて行動するために この世界に生きているのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するために この世界に生きているのではない。
私は私、あなたはあなた。
もし偶然にも、私たちが出会えたのなら それは素晴らしいことである。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことである。
ご参考になさってください。

HSPHSC Plus+によるお悩み相談会
参加
コメント
話題の投稿をみつける

ほー #

超夢銀

ちの@

なお
欠点といえばホッピーがないことくらいか

きつね
大事なのは本人がどれだけ面白い生き様をしたかだ。

ホビッ
もう見られないのか…
(ののゆののユニゾンも胸熱だった)
#ぽーEVER

りなた
#ひとりでしにたい #MILK #佐野勇斗

ぬこぱ

しぶや

こらる
もっとみる 
関連検索ワード

たまつ
相手が何に反応して傷つくかまで、「わたし」はコントロールできない。という一文が刺さりました。ある意味、驕っていたのだなと気づかせていただき、少し解放されたような気がします。回答ありがとうございます[照れる]