みんながみんな言葉というものを、粗く、テキトーに、投げやりに乱用している(なぜなら正確な言語運用は面倒だし、そもそも正確さなど必要ないコミュニケーションがほとんどだから)せいで、またまさに言葉に変換したいと思っている意味内容を、その場に用いられる言語の語彙がそもそもうけとめえないケース(その場合はうけとめえる別の言語を借りるか、諦めて“似た”何かで表現するかだが)が少なくない、またはうけとめえても発話者がボキャブラリーに乏しい場合は正確に言語化することがかなわないせいで(←俺のこと)、人間による相互の情報伝達は、あまりにも、あまりにも容易に混乱が起こり(実際混乱が問題にならない、というか混乱がおこっていることにすら気づかないケースが大半だが、問題になるケースももちろん少なくない)、よほど言語運用に気を配らない限り、正確に情報が伝達されるなんてことはほとんど皆無といっていいんじゃないか。
(なので、余裕があるときは、言葉はなるべく正しく使いたいっすね、という話。)
(そして、言葉(概念)を正しく運用したいならまずは、複雑でよくわからない混合物になってしまっている言葉・概念を、きちんと腑分け、整理するところから始めないといけないよねという話。)
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みんながみんな言葉というものを、粗く、テキトーに、投げやりに乱用している(なぜなら正確な言語運用は面倒だし、そもそも正確さなど必要ないコミュニケーションがほとんどだから)せいで、またまさに言葉に変換したいと思っている意味内容を、その場に用いられる言語の語彙がそもそもうけとめえないケース(その場合はうけとめえる別の言語を借りるか、諦めて“似た”何かで表現するかだが)が少なくない、またはうけとめえても発話者がボキャブラリーに乏しい場合は正確に言語化することがかなわないせいで(←俺のこと)、人間による相互の情報伝達は、あまりにも、あまりにも容易に混乱が起こり(実際混乱が問題にならない、というか混乱がおこっていることにすら気づかないケースが大半だが、問題になるケースももちろん少なくない)、よほど言語運用に気を配らない限り、正確に情報が伝達されるなんてことはほとんど皆無といっていいんじゃないか。
大福
たぶん「正確な言語運用」の定義も個々人で異なるので、一定のミスコミュニケーションが発生するのは不可避だと思います。
ぽむ
つまり会話か対話かでコミュニケーションに割くリソースがどれだけ必要かを厳密に精査しつつ、対話であれば予め言語化を精密にしておく必要があるという事ですね。 そして会話の場合は確かに問題にならないので、情報を伝達する必要はほとんどないです。 また言語は表現方法の1つなので、必ずしも言語である必要はないというのもあると思います。
ひとみまる 投稿者
例えば、「幸福」。 例えば、「考える」。