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あお🫧
回答数 40>>
ことばは、届きません。
物理的に、聞こえる・見える──その程度の意味でしか届かない。
届いたとしても、そのことばは、受け手の“解釈”のフィルターを通してしか意味を持たない。
たとえば、歌のメッセージ全体ではなく、ワンフレーズだけが刺さるように。
あるいは、発した本人にはそこまでの思いがなかったことばが、誰かの支えになることもある。
私たちは、届いたことばを選び取り、自分で意味を与えているのだ。
「やる」と言ってやらなければ、そのことばは、たちまち“嘘”になる。
「愛してる」と言いながら、奥さんが家事をしている間にリビングでゲームをしていたら、
「愛してるんやなかったと?」になる。
ことばが届くのではない。
届くのは、行動だ。
「有言実行」という言葉は立派だが、
それは「できなければ嘘になる」可能性と、いつも隣り合わせ。
行動も、嘘はつける。
でも、それを“貫く”には、時間と労力と覚悟がいる。
ことばだけなら、一瞬で取り繕える。
やわらかい言葉を選べば、それだけで“善意”のように見える。
だからこそ、
ことばだけでできている世界は、ずるい。
嘘の敷居が、低すぎる。
でも、社会は“やわらかい言葉”が好きだ。
「できんのなら言うな」
「やるなら、言わんでもいい」
私は、そう思っている。
無言実行──
それがいちばん、まっすぐ届くと信じている。
私は、人と人は“別個体”だと考えている。
だから、わかり合えないのが前提。独りであることが前提。
「人はわかりあえるよ。努力をしないと」
「手を取り合わないと人は生きていけない」
「所詮ひとり、って言うなら、私は要らない?」
──そう言い残して、去っていった人もいる。
ほらね。
経験が積み上がって、確信に変わっていく。
「伝えたい」は、自己満足。
「伝わった」は、幻想。
すれ違うのが普通。
だからこそ、伝わらない前提で、ことば選びの“努力”をする。
ことばは、届かない。
「届かない」と知ったうえで、それでも選ばれたことばには、
沈黙にはない温度がにじむ。
努力によってのみ、ほんのわずか、“何か”が見える程度。
でも、私は、ことばを紡ぐ。
ここでは──届かない言葉だけが術。
私の投稿文字数が多いのは、
時間を割いて読んでくださる方への、ささやかな感謝の気持ちです。
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sachi @社

Belias☭

椎夏

緑

トラち

何度目

かみた
夢占いしてくれ

みャビ
電話の人も明らかジジイだったし終わりだよもう
どうせ誓いの言葉言うんだろ?嫌すぎる...あんなの出勤前に社訓唱和とか宗教だろ...発声練習じゃねぇよ...接客してたらできるようになるし、その日働く体力無くすぞ?

こらる

こらる
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モ!
どこかの動物学者が言っていましたが、 動物の認知機能にはそれぞれ限界があります。その限界ある認知機能に応じて世界を感じているようです。 つまり、マダニもデンデンムシもモ!もそれぞれ同じ世界に居ながら、時間と感覚など認知の仕方が違うのです。 そして他の動物の認知を共有することは不可能です 僕がマダニのように、一種の動物が発する物質を感得することも無理ですし マダニが僕のように視覚で世界を見ることもできません 演繹すると 人間同士もおそらくこの認知機能が似てるけれど違うのだと思います 似てるからみんな同じだという幻想。 この幻想を具現したのが言葉なのかもしれません 文字制限[大泣き]
yjk☁️
他の方が回答されていたが、受けての問題が大きいというのは事実だろう。 感情論を語る相手に対して、構造的に説明をしても理解されない。さらに、理屈で説明する側にも感情があり、相手がそこに対して考慮が抜け落ちていることを指摘しても流され、「でも、でも」と話が振り出しに戻る。 認知のズレを修正しようとしても、そもそも視座が違えば対話が成立しない。 それでも、言葉を探して紡ぐのは相手の存在を否定したくないから。 だが、伝わるために合わそうとすれば、誤認や歪みが生まれてしまう。 結果、伝わる人に伝わればいいという排他的な構造ができあがる。 だから、僕たちはズレが残る前提でどう関わるかを選んでいくしかない。
Shu
こういう感じ好き[笑う]
木金
音韻や文字の形で流通している言葉たちは共通のものとして扱えても、皆それらの言葉に意味を持たせるために各々で概念世界を作っていると言っていいですからね。 概念世界を部分的にであれ可能な限り近似させようとする努力は学問の世界では一般的に行われていますが、だからこそ大抵の場合たくさん勉強してその概念世界を自分の中に作ろうと頑張っているのだと思います。 文学作品は言葉の使い方から作者の概念世界が香ってくるような気がします。
としゆき
なら自己満でええやん[にこやか]