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あお🫧

あお🫧

卑屈や自己肯定感の低さを語る文脈には、なぜか「他者との比較」「他者からの評価」など、“外側との関係性”が前提として組み込まれていることが多い。
でも、それにはどこか違和感がある。

私の自己評価は、他人と比較した結果ではない。
自分の能力や課題達成までの粘り強さは高い――これは、他人と比べたからそう感じているのではない。むしろ、比べる必要すら感じない。自分自身が持つ判断基準において、ある基準に達しているからそう言っているだけだ。

私にとっての“評価”とは、自分の内的基準に照らし合わせたときの整合性であり、他者の存在を前提にはしていない。
他者に対しては、むしろその基準を意図的に甘くしている。私の基準を他人に求めたら、過酷すぎると知っているからだ。

この構造の中で生まれる「自分への厳しさ」が、外から見れば卑屈に見えることがあるのかもしれない。
私は他者の目に怯えているわけではない。ただ、自分が達したい基準に届いていないのではないかと、自分自身の目で内に向かって問い続けるそのジャッジが苦しいのだ。

心理学的な文脈では、卑屈さや自己肯定感の低さは「他者との関係性のなかで育つ」と語られる。
けれど私にとっては、その「他者の介在」こそが違和感の源だ。
もし、自分の軸を最初から内側に置いてきた者がいたとしたら?
あるいは、外に差し出した感覚が通じなかった経験を重ねた末に、内に戻らざるを得なかった者がいたとしたら?
そういう人間にとって、卑屈とは「自己否定」ではなく「未達感の言語化」に過ぎない。

たとえば、「この程度なら本来の自分なら数日で終わるはずだったのに、集中を保てなかった」と思うとき。
あるいは「周囲は褒めてくれても、自分が目指していた地点には届いていない」と感じるとき。
そこにあるのは敗北感ではなく、理想との対話だ。

それは他者を見上げて起こるのではなく、自分の理想を、まだ見据え続けているからこそ、起こる感覚なのだと思う。
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コメント

リクリ

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2 GRAVITY

あぁ良い思考ですね。 人の考える様、過程を垣間見るのはいつも楽しい。 僕でいうところの、主観的"私"をさらに掘り下げていった感じでしょうか。そして、極端に言えば客観0:100主観にも近い感性を感じます。 こうも厳しく、自らを見つめられるのは、あおさんの、あおさんらしさな気がします。 場合によっては、自身への否定すらも自身を肯定するための手段に過ぎないのかもしれませんね。 まだ少しあおさんを深く見れた気がします🤔

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あお🫧
あお🫧
私は今の自分の最高解だと思って色々選択してますけど、明日には全く違う、相反する答えを出すかもしれません。自分なりに理屈が通っていれば、“昨日と言ってることが違う”とか“社会的に”とか“普通に”とかはあまり気にしないのかもしれないです。人は押し付けてくることもありますけど、自分の“納得”を大事にしているんだなと改めて気付きました。ありがとうございます。
4 GRAVITY
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らかん

らかん

1 GRAVITY

100%理解しました👍

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あお🫧
あお🫧
もう“卑屈”とか“自己肯定感が低い”というラベルで自分を縛るのやめる。課題は、高すぎる理想との折り合いのつけ方だね(笑)
3 GRAVITY
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まぼ

まぼ

1 GRAVITY

言語化レベルが素晴らしい!カッケェっす先輩!笑

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あお🫧
あお🫧
かっこよかろ😎
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卑屈や自己肯定感の低さを語る文脈には、なぜか「他者との比較」「他者からの評価」など、“外側との関係性”が前提として組み込まれていることが多い。