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からくり
いまの世の中は、刹那的に個人の利益を追い求めることが当然のようになっています。
効率や成果を優先し、他者や未来とのつながりを後回しにする生き方が広がる中で、私たちは「生きることの意味」を問い直す余裕を失っているのではないでしょうか。
その結果、死を遠ざけ、性という根源的な人間関係を語る場も閉ざされてしまいました。
死を直視しないことで生命の限りを忘れ、性を忌避することで命をつなぐ営みの尊さを見失っている。
過去や未来とのつながりを切り捨て、「いま自分がどう生きるか」だけが重視される風潮の中で、他者や未来を想像する力も少しずつ弱まっています。
こうした状況では、誠実に生きようとする人ほど報われにくく、個人は孤立し、支え合う場は失われます。
社会全体が「なぜ生きるのか」という根源的な問いを持たない方向に流されてしまうのです。
死と性という最も根源的な営みを隠す文化が、生命の循環や人間関係の本質を覆い隠し、生きる意味そのものを希薄にしている。
これが「先進国病」とも言える、現代社会の深いところに潜む問題ではないでしょうか。
では、どうすれば死や性を語れる場を取り戻せるのでしょうか。
大きな制度をいきなり変えるのは難しくても、できることは身近なところから始められます。
学校教育の中で「性」を避けるのではなく、人と人が結びつき未来を育む営みとして丁寧に扱うこと。
死についても「縁起でもない」と遠ざけるのではなく、祖先や命のつながりを学ぶ中で自然に触れられるようにすること。
そうすれば若い世代は早い段階から「生きること」を多角的に考える習慣を持てるでしょう。
家庭や地域の場でも、小さな対話を重ねることが大切です。
「死を話題にしてはいけない」「性を語るのは恥ずかしい」といった壁を少しずつ取り払うだけで、安心して語れる空気が生まれます。
その積み重ねが、社会全体に「死や性を語ってもいい」という共通の感覚を広げていくはずです。
そして最終的には、制度や文化の中に「誠実に生を考える枠組み」を組み込むことが必要です。
医療や福祉の現場で死をどう迎えるかをオープンに語れること、性に関する誤解や偏見をなくし多様な在り方を受け入れる仕組みを整えること。
こうした取り組みが、社会の成熟を底から支えることになるでしょう。
小さな対話から始め、教育に繋げ、やがて制度や文化に定着させる。
この三つのステップを回し続けることが、根源的な問題を乗り越えるための誠実な道だと私は考えます。
そして何よりも大切なのは、私たち一人ひとりが「今日からできること」を意識することです。
身近な人との会話の中で「死」を少しだけ口にしてみる。
祖父母や親の思い出を語り、命のつながりを話題にしてみる。
それだけでも「死を語ってもいい」という空気をつくることにつながります。
また「性」に関しても、恥を前提にせず、自然な関心として誠実に語ってみることが大切です。
「こう考えたことがある」「自分はこう感じている」と共有するだけで、相手に安心を与え、互いに学び合うきっかけになります。
さらに、自分自身に問いを投げかけてみることもできます。
「なぜ私は生きるのか」「死をどう受け止めたいのか」「人と人が結びつくことをどう考えるのか」。
答えが出なくても構いません。問い続けること自体が、死生観を取り戻す営みになるのです。
今日からできるのは、大きな行動ではなく、ほんの小さな言葉や問いかけ。
その積み重ねが、やがて 自分が生きる意味につながるかもしれません。
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