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manacuba

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日本でカルトの議論は無意味だ。何がカルトであって、何がカルトでないか。これは日本人の能力を超えている。ヨーロッパにはキリスト教の伝統がある。カルトに対する正統がある。日本の伝統には、正統を正統たらしめる基準がなく、そのためにカルトをカルトたらしめる基準もない。

だが日本国内に基準はなくても、日本の正統は海外からはカルトとみなされている。日本人の心を支えている靖国神社は、アメリカからは「ザ・カルト・オブ・ヤスクニ」の一言で終わりだ。戦後にアメリカによって国家神道が廃止されたのは、日本人の心はカルトに支配されているということだ。これが日本の特殊性としてリビジョニストや一部の左翼(大江健三郎や丸山眞男)に批判される所以である。

現代において統一教会や創価学会が社会から排除されない理由は、日本にカルトを批判するだけの正統性も、個々人の正常な精神もないからではないか。それならばカルトを排除するためには、オウム真理教を排除したように社会に対する実害を根拠とするしかない。しかし、表立っては、統一教会も創価学会も秩序を乱す破壊活動には及んでいない。実に巧妙な支配のための政治権力である。

ならば日本カルトの否定の根拠をどこに見出せはよいのか。私は日本の伝統の否定論者で靖国廃止論者であるからはっきり言わせてもらう。日本の伝統の否定的見直しをしなさい。自分たちの心のあり方が異様なものだと理解しなさい。否定の根拠は一人一人の心の中にある。個々人の内面の劣性としてしか根拠はない。

どうしてカルトを存在させている根本的な原因をなくすことなく、具体的な組織としてのカルトをなくせることがあるのか。私たちの精神、保守派の言う「日本精神」は自らの意思により否定されなくてはならないのだ。この地点からしか、日本でカルトを根絶する対策はないと私は主張したい。これなくしてはいくら破防法を活用したとしても、繰り返しカルトはよみがえるだろう。私たちは戦後の罪と後悔の自己否定の精神に帰るべきなのだ。
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