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マサヤス 龍之介
#読書の星 #音楽本
☆『「ヒットソング」の作りかた
大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
/ 牧村憲一 NHK出版新書 2016 第一刷
山下達郎のファーストアルバム制作話の後、本書は大滝=山下の音楽上のスタンスの相違点を述べて、その後は山下が大滝亡き後に追悼番組を馴染みのラジオ番組で簡単にはやらない理由を明文化して山下の大滝愛が如何に深いかの理由を述べて、その章を締めくくっている。同時に大滝に関する記述もここで一区切りつけている。以後は牧村のレコードプロデュースの旅が始まる。先ず手始めはロフトセッションズという1978年にリリースされたオムニバスアルバムから始まる。これはシュガーベイブがライブの拠点にしていた荻窪ロフトで解散ライブを行った場所でもある「ロフト」の主宰者平野悠の「ライブハウスがレーベルを持ってもいいじゃないか」に賛同した牧村が制作したアルバムだった。平野が、ジャズ・シャンソンが中心だったロフトのプログラムをロックへと方向転換したのは時代を読む嗅覚が鋭かったからだろう。当時ロック専門のライブハウスはまだ希少だった。又彼は確たるポリシーを持ち合わせており「自分達は飲食代で稼ぐ。入場料でミュージシャンにギャランティーを払う」この当たり前とも云うべき商売の鉄則をかたくなに守る平野の姿勢に牧村は共感したのであろう。平野は出演するミュージシャンに入場チケットを売らせる様なことは決して無かった。だから、ミュージシャン達からの信頼も厚かった。現在に至るまで、出演ミュージシャンにチケットを売らせる本末転倒な商売をするライブ店主のなんと多いことか。
1976年当時の日本ロック地図はアウトローの音楽から又別のタイプの人々の参戦により、ロック=ポップスへと塗り替えられていた丁度過渡期であった。それはその前年にリリースされた邦ロックアルバムのラインナップを見れば納得的だと思う。それは山下達郎が比較的最近のテレビ番組で語っていた言葉に集約される。「僕が音楽をやり始めた頃は、僕を含めて本来音楽をやらない人種が大量参入してきた時代だった。」。
それまでのトレンドや固定観念に縛り付けられていたのは、誰あろう当時現役だった同業の先達らだったのだ。
つづく…。



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